情報化社会と囲碁の多様性

王唯任四段
王唯任四段

 千寿会の非常勤講師として人間味あふれた指導をいただいている王唯任四段が昨年秋、真っ先に公開すると約束してくれた修士論文「情報化社会と囲碁の多様性」がこのほど当サイト宛に届きました。

王四段は日常の棋士活動を続けるかたわら、桜美林大学(東京・多摩市)修士課程に在籍し、コンピューターが発達し、ネットワーク社会が広がる中で囲碁がこれからどう展開するかを考証する型破りなテーマに正面から取り組まれました。情報化社会がどのように形成されていくか、その結果もたらされる“光と影”の部分に対して、囲碁は「face to face」の深い人間関係、人間的なふれあいの場をつくり出す有効な手段としてますます大きな役割を演じていくと結論付けています。

全文は100ページ近くにも上る膨大な量になるので、ここでは同論文の「終章」にまとめられた総括部分を原文のままご紹介いたします。王四段の美しい日本語と合わせてご堪能ください。

亜Q

(2004.8.1)

情報化社会と囲碁の多様性

王唯任

プロローグ〜本論の総括

12歳で日本に来てから、私はずっと囲碁の世界で生きてきた。プロを目指し、修行の日々を送り、晴れてプロになってからも囲碁漬けの生活をしてきた。そんな私が大学に入り、さらに大学院で勉強した情報化社会について大変興味を持った。 パソコンやインターネット、携帯電話などを使い、まさに情報の渦に埋もれている自分。また囲碁の分野においても情報化が進み、パソコンで棋譜を見たり、インターネットで対局ができたりなど、4000年もの歴史のある囲碁も情報化によって大きく変化しつつある。

ただその反面、情報化による問題点も大変身近に感じてきた。コミュニケーション不足や、情報過多による判断能力の低下、コンピューターなどを使える人と使えない人との格差(デジタルデバイド)など、これまでは考えられなかったような問題がたくさん浮き彫りになってきたのである。

私は、これまでの26年間、囲碁を知っていたことでたくさんの素晴らしい経験をすることができた。一般の社会では知り合うことのできない人と囲碁を通じて深くコミュニケーションをとることができたり、会話が苦手な人とも囲碁を通じて打ち解けることができたりした。また、囲碁で培った判断力、論理的思考能力は、人生のあらゆる面において役立ち、ここぞというときの判断力にはかなり自信を持っているし、物事を深く考える力もあると思う。同じように囲碁で培った構想力、自己制御能力、パターン認識能力なども、囲碁をやるだけでなく、これから長い人生を生きていくうえで大変役に立つものだと思っている。

そしてこれら、私が囲碁を通じて経験し、見聞きしてきたことは、情報化社会の問題点を解決するのに必ず役に立つという考えに至った。

しかしながら、囲碁は、年配者の趣味や難しいとイメージが強く、このような効果も、古い歴史についてもあまり知られてはいなかった。そのため、囲碁の歴史や起源、さらにはたくさんの効果について調べ、それらを分析するとともに、新たな囲碁の効果、魅力について提唱し、また、今後さらに進む情報化社会について改めて考察し、その問題点を探るとともに、情報化社会における囲碁の可能性について検証してきた。

これらの点を踏まえ、各章を振り返りながら、情報化社会において囲碁がどれだけ有効かを改めて述べていきたい。

第1章 囲碁の起源とルール、各国の囲碁の歴史

日本では、本能寺の変の前夜、信長の御前で囲碁を打っていたという初代名人の算砂が、信長、秀吉、家康の三代の相手をしたと言われており、また徳川幕府が囲碁を保護して、その発達を助成していたという事実があった。 日本と中国の囲碁文化を比較したとき、同じ敗戦を経験しながらなぜ中国は急激に衰弱したのかという疑問点に至った。そしてそれは、政府による囲碁の保護があったかどうかの違いであったということがわかった。日本は、徳川幕府が囲碁を保護したことが人々に浸透する大きな要因になっていたのである。

また、韓国の囲碁についても、日本よりも古い歴史があるにもかかわらず、韓国囲碁史の文献、資料が少ないことは、外敵の侵攻や戦乱に明け暮れした国情から推測することができた。

国運の盛衰により清朝末期の囲碁が衰弱していった例や様々な歴史に照らしあわせると、囲碁に限らず、あらゆる学芸の才能が、国と時代による進退と運命一体であったといえるのである。

このような点から考えると、今後日本だけでなく、世界中に囲碁を普及するためには、国の情勢の安定、ひいては世界平和が大きな鍵を握るといえる。もちろん、囲碁を通じてコミュニケーションすることで、結果として生まれる平和や安定もあるかもしれないが、前述の韓国の例などを見ると、国情の安定が大きく影響することは間違いない。

世界中で囲碁によって平和が生まれ、さらに囲碁を楽しむことで平和が継続するような社会になることを強く望む。

第2章 情報化社会の形成と利点、問題点

情報化社会の進展に伴う、情報処理・通信技術の革新は、人間社会に利便性を与え、人々に幸福をもたらしてきた。インターネットの端末さえあれば、誰でも時間や距離に拘束されることなく、国境を越えて広く情報を流すことも収集することもできるようになり、障害者や社会的弱者の社会参加など、いわゆるノーマライゼーションの実現も夢ではないかもしれない。これらの点はまさに情報化社会の光であり、たくさんの人々がその恩恵を受けてきたであろう。 だが何事も光があれば影もある。情報化社会は多くの利点をもたらすと同時に、たくさんの問題点も生み出すこととなった。

その影として重要なのが、情報過多の問題である。情報が急激に増えるなか、私たちは情報の洪水に押し流されており、さらに情報洪水と情報過熱から来る飽和状態が、個人の判断能力を低下させ、情報の交通整理を他者に委ねようとする姿勢を強めることとなっている。

情報の洪水に流されて生きるような生活では、自分で物事を判断し、動くことができなくなり、情報に振り回され、情報がなければ生きられないような人間がたくさん生まれてしまう。そもそも人間は、意志をもつ動物であり、情報はその意志を決定するための判断材料にすぎなかったのだが、その立場が逆転してしまうということも考えられる。

個人の人格形成においても影響を与えかねない情報過多な社会においては、自我をきちんと確立しておくことがなにより大切であり、それを前提として必要な情報を判断、整理していくのが望ましい。

情報化社会は、その機能を十分に活用できる環境にある者、また技術を持つ者に対しては、大変便利で心地よい暮らしをもたらしたが、情報媒体を持てない者や、技術を持たない者に対しては、苦痛ともいえる状況をもたらし、さらには精神的孤立をも生むこととなった。

このような格差における支援や取り組みは、国や市町村、企業などで多数行われており、個人の意識が高まれば、さらに格差は小さくなると思われる。しかしながら、情報技術がものすごいスピードで進化を遂げていることにより、それについていくことのできない高齢者などが、途中であきらめてしまうような例もあるという。このようなことはもはや技術で解決できる問題ではなく、人間同士のコミュニケーションを深め、「持たざる者」である弱者が、学びやすい、情報媒体に接しやすい雰囲気を作ることが解決への近道ではないだろうかと考える。

情報化社会においては、前述したように、人によってはコミュニケーションの範囲が広がり、人によっては孤立を生むという側面がある。ただ、仮想空間を通じたコミュニケーションの広がりは、現実の生活における判断能力を失う可能性もあり、安易に殺人を起こしたり、自殺サイトで心中を図ったりなどはその顕著な例である。しかしながら、コミュニケーション媒体として決して否定できるものではなく、その利点は計り知れないものがある。

そのため、必要なのは、実生活における現実体験である。情報媒体を通じたコミュニケーションも、実生活における「face to face」の関係があってこそ広がり、深くなるものであり、どんな体験も、実際に体で体験することが一番心に残るものなのである。そして、このような「face to face」の深い人間関係、人間的なふれあいの場を作るのに、囲碁はまさに有効な手段なのである。

第3章 情報化社会と囲碁の関連性・可能性

情報化の進展により、かつては身近な人や碁会所に行かないと打てなかった囲碁が、コンピューターやインターネットを使って気軽に楽しめるようになった。そのうえ、外国人とも対局できるようになり、国際交流や英会話の勉強にも役立つようになったのである。今では、インターネットで囲碁を覚えた人も多く、囲碁人口の増加には大きく役立っている。

対局だけでなく、インターネットの情報網を使って、世界中の対局がリアルタイムで観戦できるようになり、日本の囲碁だけでなく、韓国や中国、ヨーロッパなどの囲碁も身近に感じられるようになった。またプロの世界では、各国の棋譜が手に入るようになったことで、布石や定石の研究にいっそう熱が入り、技術の向上を生むこととなった。

アニメ『ヒカルの碁』によってこれまでの格式が高く、お年よりの趣味と思われていた囲碁が、イメージを変え、子どもや若者にも人気のゲームとなった。その結果、子どもや若者の囲碁人口は増え、さらに囲碁界全体のイメージアップにもつながったのである。

しかしながら、こうしたメディアによる流行は、長くは続かないことが多く、テレビの放映終了に伴い、子どもたちが少しずつ囲碁から離れている現状も見逃せない。ブームはあくまでブームに過ぎず、そのあとのケアが何より大切で、囲碁に興味を持った子ども、強くなった子どもを、環境面でいかにフォローしていくかが囲碁普及の最大の鍵となる。

コンピューターの技術革新により、チェスやオセロにおいては、世界チャンピオンがコンピューターに敗れ、将棋も今はコンピューターがプロに近い実力になってきている。しかし囲碁はコンピューターの苦手とする「感性」や「感覚」が重視されるため、まだまだプロのレベルには程遠いところにいる。

極めて個人的な考えだが、私は、プロとして囲碁の「感覚」「感性」の必要性を痛感しているだけに、少なくとも近い将来においては、プロがコンピューターに屈する日は来ないのではないかと思っている。なぜなら囲碁には、技術では解き明かせない奥深さや、感覚があり、それが囲碁の魅力そのものでもあるからである。

また第3章では、第2章で述べた情報化社会における問題点を囲碁の効用で解決できるか考察した。 

情報化社会の進展に伴う問題点として、情報過多の問題、世代間、地域間、国家間などで起こっているデジタルデバイド、コミュニケーション能力の問題、そして超高齢化社会などがあるが、私は、これらは全て囲碁の効用で解決、または解決へ近づくと考えている。

情報過多の問題については、前述したように、囲碁をやることによって身につく、判断力や自己制御能力が大きく働くと考える。判断力は、たくさんの手があるなかから、一手一手で変わる局面において、常に最も有効な手を、感覚または先を読むことで判断するという囲碁の側面が大きく育てるものであり、情報過多の洪水の中で、どれが最も有効で、先につながるかということを判断することと同じである。

また、自己制御能力では、常に冷静さを保つことで精神的に強くなり、結果的に勝ちにつながるという囲碁の効果によって身につくもので、バーチャルな世界で激しい疑似体験をし、自己制御能力のない若者などにも有効だと思われる。

またデジタルデバイドの問題や、コミュニケーション、高齢化などの問題は、技術やシステムでそれを解決するのではなく、古きよきコミュニケーションを取り戻すことで解決できるのではないかと考える。

つまり、人と人との直接的なつながりが薄れつつある情報化社会においては、他者との関係の中で生きていること、相手の気持ちを感じ取ることを経験しなければならず、積極的にコミュニケーションをとり、人とのかかわりの中で実体験を積むことが必要だからである。

この点において、第3章で紹介した教育や福祉、まちづくりなどに囲碁を取り入れるプログラムは大変有効で、日本だけでなく世界でも導入されている。

核家族化の進んだ今のような時代においては、子どもたちは世代を越えた人間関係を作りにくい環境を生きている。だが、囲碁という楽しみを、もし両者が知っていたのなら、世代の壁などは関係なくなる。一緒に囲碁を楽しみ、共感を得ることで、子どもはお年寄りからやさしさや思いやりをもらい、お年よりは子どもたちから元気をもらう。こんなコミュニケーションがなにより大切なのである。

また、高齢者のボケについても囲碁は予防と治療の両方に役立つという研究も発表された。これは情報化社会により高齢化した日本にとって福音となる。

囲碁を通してコミュニケーションを図ることで、若者が高齢者に技術を教える、また高齢者も若者に人生経験を教えるなど、もはや格差云々ではなく、お互いに教えあう新たなコミュニケーションが生まれるのではないだろうかと私は思う。

情報格差を埋めるための努力をしたり、若者からメールをとりあげるよりは、このようにかつては当たり前にあった人と人との「face to face」のコミュニケーションを取り戻し、心地よい人間関係を広げ、人間は1人では生きてはいけないこと、そのため、お互いに支えあっていきていかなければならないことを体験させるほうが、はるかに有意義だと思うのである。

このような問題点を問題と捉えるのではなく、囲碁を通じてコミュニケーションを図るためのきっかけと考え、たくさんの人に囲碁を楽しんでもらいたいと思う。

エピローグ 残された課題

囲碁は紀元前2000年に発明され、現在まで約4000年の長い歴史をもっている。囲碁のほかに4000年間も続いているものは、人間としての基本的な所業ばかりである。つまり囲碁は、人間が生きていくことと極めて密接な関係があり、また生きていくために必要な要素(今の段階ではわからないが)を得ることができるのではないかと考えられる。

囲碁には、研究・解明されてない効用が数多くあり、4000年もの長い間、人間に必要とされていたその理由でさえも、わかっていない。またこのような論文を書くなかで、囲碁の新たな効能について、すなわち、情報化社会の問題に限らずあらゆる問題が囲碁で解決できるかもしれないという考えも生まれたため、プロ棋士として、また囲碁を愛する者として引き続き研究していきたいと思う。

 最後に、今回の論文作成にあたり、私にたくさんの知恵と情報を与えてくれた、多くの先人たち、そして彼らの行った囲碁についての研究に、心から感謝の意を述べたいと思う。彼らの存在が無ければ、このような論文は生まれず、また囲碁の効能や魅力を多くの人に伝えることはできなかったであろう。この場を借りて感謝の気持ちを述べさせていただく。 そして彼ら先人たちの思いを借りたこの論文で、囲碁のさらなる研究や普及につながればこれ以上の喜びはないと考える。


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