ヤッシーが射止めた"3高棋士"

5月26日の千寿会は、囲碁同好会成島塾を主宰される傍ら、慶応大学囲碁部OBで構成する囲碁三田会幹事を務める日本棋院普及指導員の成島眞さん、ホテルニューオータニ囲碁サロン発祥メンバーの大居さん、アンティ君が来日された際に何くれとなく面倒を見られたアメリカ人愛棋家カートさんら初参加の方に加え、元慶応大学囲碁部部長のなっちゃん(高尾奈津子さん)、コミ6目半を最初に取り入れた女流棋戦「東京精密杯・女流最強戦」を創設・10年間運営され、囲碁界最高の顕彰と言われる大倉喜七郎賞を2010年に受賞された会友・大坪英夫さん(元東京精密㈱社長)らが見えて大賑わい。

強豪カートさんとの互い先対局を勝利されたなっちゃんは、三々に入られた際に押さえる方向を局後の感想戦でご披露されていた。さすがは元名人・本因坊に輝いた四天王の実力者、高尾紳路の令夫人だ。大坪さんは2005年に東京精密㈱会長職を退かれた後、大病を患い数度の大手術を乗り越えてすっかりお元気を回復。指導碁では先で挑戦して相変わらず気風のいい"英夫の碁"を見せてくれた。

当日の講師は初顔の金澤秀男七段。棋聖、名人の名誉称号を持つ小林光一九段(なぜか、本因坊とはご縁がなかった)門下。山下敬吾名人・本因坊、最近リーグ戦常連格となった溝上知親八段、知念かおり元女流タイトル者らと同期。なぜか、いずれも囲碁棋士または囲碁インストラクター(山下敬吾夫人は、高梨聖健八段の愛妹の聖子さん)とのおしどり夫婦ばかりだが、金澤七段の奥方も矢代久美子元女流タイトル者(通称ヤッシー、結婚のいきさつ、『週刊新潮』が珍しく囲碁界の話題を取り上げた記事)。

ヤッシーと言えば、回りくどい言い回しやきれい事を排し、腹の内をポンポン口に出す奔放・独創的なB型の典型、といったところが私の思い込み。「この碁は運よく勝たせていただきましたが、まだまだ未熟です。これからも頑張りますので応援よろしくお願いします」などとどこでも聞かれるような挨拶言葉を聞くと、思わず「気色悪ーっ」と声にも顔にも出てしまう。日頃の行動は臨機応変を尊ぶ。手合いに臨んでは得意戦法や定石・定型にこだわらずその場の気分次第のなまくら四つ。ピアノや習字の上達、自転車に乗れるようになるといった一度決めた数々の目標もいつしか忘れ果て、それで何ら忸怩たるを知らぬテンネン系なのだ。

しかしそれは世を忍ぶ仮の姿。ご自身が特別に思い入れた事柄になると一転してすさまじい集中力を示す。今世紀初めの7月、25回目の誕生日を迎えたヤッシーは「四捨五入すれば30歳!」という現実に目を覚まして愕然となり、「絶対20代で棋士と結婚する」と誓う。そこで自ら課したのが、年齢・段位が自分より上で背も高いという「3高条件」。しかも「デートする時にハイヒールを履きたい」と乙女らしい願いをかけた。ご存知の通り、ヤッシーは女流棋士の中でひときわ背が高い。「自分の背丈は169センチ」と言い張っているが、衆目の見るところ170センチを悠に超える。この3番目の条件は極めて厳しいものだった。

ところが偶然(あるいはヤッシーは既に目星をつけていたのかもしれない)、身近に金澤秀男七段という存在があった。彼は関西棋院の結城聡元天元と背比べをしたことが囲碁界で知られており、金澤七段が少し高かった。しかも2012年5月現在も少しずつ伸びていて、現在183センチあるから、ハイヒール・デートも軽くクリア。

ヤッシーがアタックを開始したのは、当時若手棋士が集まった初台研究会の場だったらしい。金澤七段がバイオリンを弾くと聞くと、ご自身もピアノに挑戦、瞬く間に「月光第一楽章」を弾けるようになった。金澤七段が米国留学経験があると知るとすぐに棋士仲間の英語研究会に顔を出したという。苦手だった料理も「結構いろいろ工夫して手早くつくる」(金澤七段)ようになった。ただし「手抜き」がお得意らしいが。初めてのデートは「金澤八景島にしたい」と強硬にリクエストしたという。

そして苦節5年、30歳の誕生日のわずか20日前、金澤七段と晴れて華燭の宴。その直前には女流本因坊のタイトルもゲットした。策を立てるに当たって周到・精緻、事を成すにあたって大胆・果敢、アッパレ至極な猛女の鏡と称えるしか言葉を知らない。以上は、千寿会お開き後の飲み会で金澤七段に強引に確認したから、ほぼこの通りと思っていただいて間違いあるまい。

さて、当日の千寿会を大盛況のうちに締めくくったのは、第67期本因坊戦七番勝負第一局の前日(5月14日)、プロ棋士誕生400周年を記念して、存命する歴代本因坊10人(全員の名前を挙げられれば、囲碁通人ランク五段格かな?)が京都・寂光寺に集結して営まれた初代本因坊算砂(日海上人)の法要・墓参から千寿師匠が持ち帰られた「囲碁上達御守」。日海上人は信長、秀吉、家康の3人の天下人に仕えた器量人。寂光寺の「本因坊」という名の塔頭(たっちゅう)に住み、本能寺の変が起きる前日に異変の前兆とされる「三コウ無勝負」の碁を打ったとの説もあり、寂光寺は以来400年間、囲碁所縁の地として知られる。数十個あったと思われる「御守」は、かささぎさんや梵天丸さんらが先を争って入手されたが、私も残り物を1つ拝受することができた。

亜Q

(2012.5.28)


もどる