已むに已まれぬ大和魂

 国際交流活動でヨーロッパを飛び回っている千寿師匠が久しぶりに帰国された折、「囲碁と日本語は相性がとてもいい」としみじみと口にされることがある。

 確かに碁は原理そのものはまことにシンプルだけれど、いざ打ち始めると私レベルのザル碁アマでもいかに深く広いことかと圧倒されてしまう。他の競技と違って、コンピューターが人間に勝てる日が来るかどうかさえ怪しい。だから必要な専門用語が多いのは当然だけれど、競技をするうえで必ずしも知っていなければならないわけではなくても、碁の機微に深く入っていくには覚えたほうがいい表現がたくさんある。

 例えば自分の石が二つ接する状態に打つ場合、「ナラビ」「ノビ」「オシ」「ヒキ」「サガリ」「タチ」「鉄柱」などという風に使い分けることが多い。これらは単に上下左右の違いだけでなく、石の方向や打ち手の意思などを反映したもので、日本ではこれらの囲碁表現を曲がりなりにも使えるようになれば「初段」などと言われることもある。このほかにも、「アツイ/ウスイ」「カライ/アマイ」「イイカゲン」「ウテル」「アジガイイ/ワルイ」「スマシスギ」など「こんなの訳せるか〜!」と放り出したくなるような言葉がやたらと多い。一体全体、非日本語圏の人たちはすんなり使いこなせるようになるのだろうか。

 「シチョウ」は「ラダー(はしご)」、「サルスベリ」は「モンキージャンプ」などと千寿先生から聞いた記憶があるが、ここに例示したのは元々知っていたことで、新しく聞いたことはきれいに忘れてしまった(不肖の弟子にお憐れみを)。それにしても、「ナラビ」など一連の表現はどう伝えるのか。あるいは微妙なニュアンスは犠牲にして「隣に打つ」などと単純に割り切るのかもしれない。

 そんなわだかまりが解けないまま、最近の雑誌におもしろい記事を見つけた。『選択』という月刊誌の6月号、紺野大介・清華大学教授による「あるコスモポリタンの憂国」と題するコラム。「已むに已まれぬ大和魂」の英訳について書いている。

 この言葉は、幕末期の志士たちに深い影響を与えた思想家・吉田松陰の遺書『留魂録』に出てくる(エラソーに書いてまことに恥ずかしい限りですが、私=亜Qは『留魂録』など知らなかった。すべて紺野教授の受け売りなりぃ)。ペリーの黒船が到来した時に国外脱出を図り、国禁を犯したカドでつかまり、下田から江戸へ護送される途上、高輪泉岳寺の前で赤穂浪士に捧げるとして、次の歌を詠んだ。

 かくすれば/かくなることと知りながら/已むに已まれぬ大和魂

 これを最初に英訳したのが新渡戸稲造の『武士道(Bushido,the Soul of Japan)』。キリスト、孔子、孟子、ヘーゲル、ニーチェからマルクスといった人物が外輪山のように引用され、吟味され、いわゆる“ノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)”について余すことなく遡及している、と紺野教授は最高の賛辞を贈っている。

 『武士道』はこの歌を、「近代日本の最も輝かしい先駆者である吉田松陰が刑死前夜にしたためた」としている。しかし紺野教授によるとこれは新渡戸の誤解で、「留魂録」の巻頭歌「身はたとひ/武蔵の野辺に朽ちぬとも/留め置かまし大和魂」が辞世の歌だと修正するが、「この程度のことは作品の真髄や価値とは無関係」として、新渡戸が1899年に試みた英訳を示している。

 “Full well I knew this course must end in death;
 It was Yamato spirit urged me on
 To dare whatever betide”

 しかし紺野教授は、1世紀後の今日明らかにされている史実や資料に照らせばこの歌の意味は少し違ってくると言う。つまり、松陰は下田渡海失敗で自分が死罪になるとは予想しておらず、「島流し」程度だろうと読んでいた。つまり、“肉体的・物理的な死”ではなく、 “社会的・世俗的な死”を覚悟していたはずだと説き、次のように改訂版を試みる。

 “Even knowing that the end could come.
 It could not be held back; the Yamato spirit”

 そして紺野教授は、「かくすれば」とは一体「どのように」なのか。個人主義(主語が必要)の言葉である英語と、主語がなくても表現が可能で多種多彩な意味を包含する日本語にはエトス(ギリシア語のethos。社会的習俗、民族精神、あるいは性格と訳すらしい)の差があるため、この英訳が最善かどうかわからないと指摘し、「表現」における西洋と東洋の心の在り方、つまり「持つ人生」と「在る人生」の深い渓谷まで入り込むことで、最適な翻訳が極まるだろうと補足している。

 ザル碁遣いの凡夫(つまり私のことなり)にとっては、高度な言語文化論はいくら背伸びしても届かない。恐れ多いことではあるが、せめて碁敵との切羽詰った局面で「皇国の興廃この一戦にあり」とか何とか叫んで突撃する際に「紺野訳」を使わせていただきたい。

 “Nothing could stop me!
 Even knowing that the end could come,
 It could not be held back;the Yamato spirit!!”

——てな具合に。

亜Q

(2008.6.10)


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