傘がない

安くてうまい馴染みの昼食を終えて店を出ようとすると、傘立てに置いたはずの傘がない。せっかく大枚1千円也をはたいて買ったばかりのジャンプ機構付最高級の使い捨てビニール傘なのにぃ〜。都心の昼下がり、背広を着込んだオヤヂが雨に濡れてとぼとぼ歩くなんて絶対にサマにならない。しかも私は、もしかすると雨が直接地肌に到達する確率が人様よりほんの少しばかり高いかもしれない。私は傘を持ち去バカヤローを恨み、わが身の不幸を嘆いてしょぼくれた。気のせいか、かささぎさんとお付き合いいただき始めてから、傘の詐欺に遭うケースが増えたような…。

こんな時は、かささぎさん譲りのノーテンキでいくしかない。私は一瞬のうちにフレッド・アステアだかジーン・ケリーだかに変身した。「雨に唄えば」という映画を見たのはいつ頃だったろう。ついでにカッコいい英語で「アイム・シ〜ンギング・イン・ザ・レイン」などと口ずさんでみる(さすがにタップダンスは控えたが)。そう言えば「シェルブールの雨傘」とか「雨の朝巴里に死す」とか「雨の訪問者」とか、昔いろんな映画を見たものだ。映画「マイ・フェア・レディー」では「スペインの雨」なんてしゃれた歌もあった。

雨の歌だってたくさん知っている。映画主題歌では「九月の雨」「雨に打たれても」、シャンソンなら「並木の雨(「小雨の丘」だったかな」、GSなら「雨の日曜日」、カンツォーネならジリオラ・チンクエッティのずばり「雨」、ブルースなら「雨のブルース」、小唄なら「柳の雨」、歌謡曲なら「長崎は今日も雨だった」「雨の慕情」「アカシヤの雨がやむとき」「雨の御堂筋」。モリシゲ節なら「城ヶ島の雨」、橋幸夫や柳ジョージも何か歌っていた。そうそう、千寿会最長老のちかちゃん(濱野画伯)の持ち歌は「或る雨の午後」、私なら「雨の夜あなたは帰る」だろうか。ムフフ、あの頃私は若かった。

ふと見ると、通りすがりの若い女性が私の顔を見て笑っている。イカン!雨に濡れそぼったオヤヂがニヤケテいたら、人様は何と見るか。私は口元をきゅっと引き締め、思慮深く、ちょっぴり憂いを含んだいつもの表情を取り繕い、オフィスの窓際の自席に戻る。

とは言え、仕事にすぐに取り掛かるのは若いワーカホリック。私ぐらいのベテランになると、眠っているがごとく、いつの間にか仕事をこなす。午後の始まりのしばらくの間、私はぼんやり窓外を見やる。日比谷通りを行き交う人々の群れはみんな色とりどりの傘をさしている。使い捨て傘はその3分の1ぐらいだろうか。私の傘をさしているバカヤローはさすがに見つからない。

私が使い捨て傘を愛用し始めてからかれこれ10年になる。もちろん、安いから。しかし私の場合はより高度かつ積極的な理由があった。使い捨て傘の“軽さ”にほれ込んだのだ。雨から身を守る機能は十分持ち合わせているから、利用する分には何の問題もない。なくしてもそれほど悔しくはない。しかも、気づいていながら見捨てることもできる。これこそ、「碁の要諦」ではないか。この“軽さ”を尊ぶ心がけを常に持ち続けるために、私は古女房の反対を押し切って使い捨て傘を使い始めたのだ。そしていつの日か、私はザル碁を脱皮して、「依田・覚のアマチュア版」ともてはやされる——はずだった。

然るに神は私を見捨てたまひしか。それとも私は単なる“軽い捨石”に過ぎなかったのか。9月半ばの連休、同好の士と語らって出かけた「杉の宿」(湯河原)囲碁合宿で、何とこの私が全敗の憂き目に遭ったのだ。こんなことは断じてあってはならない。この際、清水の舞台から飛び降りる気になって上等な「非使い捨て傘」を購入すべきだろうか。“軽さ”から“重厚”へ。棋風改造にチャレンジすべき潮時なのかもしれない。

亜Q

(2006.9.21)


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