「U20中野杯」創設者が碁敵を語っていた

不肖・私に碁のお手合わせしていただける方は、プロの先生だろうが私と同じくひどいザル碁アマだろうが、「学友」「個人教授」「人生の師」のどれかに当てはまる。孤独を癒し、心と体を鍛え、知的レベルアップを促し、盤上の世界から人生の深い意味を教え諭し、究極の美と真理への階段を示してくださるからだ。だから今日もまた、相手への感謝と畏敬の念を感じながら、この世に生かされている喜びと負けて覚える碁の悦楽をしみじみと噛み締めることになる。

ところが巷では必ずしもそうではないらしい。旧年末の大掃除の合間に見つけた新聞記事のコピーが、理想と平和とキレイゴトを信奉する私に、「本当の碁友、いや碁敵とはこういうもんだ」と目を開かせてくれた。筆者は「清貧の思想」を説く気高き哲学者であり、愛妻家・愛犬家として知られる心温かき作家であり、日本棋院に浄財を寄付されて「U20中野杯」を立ち上げた愛棋客の故中野孝次(1925~2004年)さん。

記事が掲載されたのは2002年2月9日付産経新聞夕刊。同年2月1日に81歳で亡くなられた作家「コンケイさん」こと近藤啓太郎さん(1920~2002年)を追悼して、文壇仲間だった中野さんが「“潮の香”漂う無頼の文士」と題した文章を寄せた。

コンケイさんは東京美術学校日本画科を卒業後、教師、漁師などを経て1956年「海人舟」で芥川賞を受賞。「日本画家と日本犬と魚の話をさせれば彼の右に出るものはいなかった」(中野さん)と言われるコンケイさんは、「第三の新人」の一人として日本画の巨匠を描いた孤高の文学からうまいもの読本、愛犬小説、好色物まで幅広く旺盛な執筆活動を晩年まで続けられたようだ。

中野さんはこのコンケイさんについて、「どこにいてもあるがままの近藤啓太郎を貫いた。よかろうが悪しかろうが世間の思惑などぜんぜん気にせず、自分になりきり、自分を出し切って生きた」と、作家として、人生の先輩として、深く敬愛していたようだ。ところが、こと碁となると、評価が一変する。以下、追悼文の一節をそのまま引用させていただく。


「週刊ポスト」主催の文壇囲碁名人戦というのがあって、近藤啓太郎はその中心人物だった。海で鍛えた彼の野太いがらがら声がひびきわたると、会が急に文士の会らしくなった。近藤啓太郎には一種独特の無頼の風があり、わたしは会うたびに、ここに無頼の文士の最後の一人がいるな、と思ったものである。何者をも恐れぬ、昂然とした独立不羈(ふき)の風貌は、最後まで変わらなかった。

だが碁の方の棋力はわたしとおっつかっつで、勝ったり負けたり、打つにつれ互いに熱くなった。近藤啓太郎の戦闘精神は相当なものだが、わたしもその点では負けていない。しかも二人で打つ碁はメゴ(賭け碁)だから打つにつれ熱くなって、つい舌戦の方も派手になる。

それを「週刊ポスト」の斎藤君が面白がって、毎回名人戦の戦記の最初に近藤とわたしの文章を載せた。互いに相手の弱さをボロクソにやっつける悪罵(あくば)の応酬で、読者から、あれでよく付き合いが続くものですね、と感想が届いたくらいだから、かなり激しいものだった。

あとになると名人戦だけでは物足らず、わたしが鴨川の近藤邸まで行って、泊りがけで碁に淫(いん)した。これも頭に血が上った状態で何十局となく打つのだが、近藤方でご馳走になるのはたのしみだった。(以下略)


実はコンケイさんは、千寿会ともいささかの「碁縁」がある。まずは最長老会員のチカちゃんこと濱野彰親画伯。コンケイさんより4歳ほど年少だが、新聞や月刊・週刊誌での活躍時期はほぼ重なる。コンケイさんは初老期に差し掛かる頃まで、銀座の文壇バーで吉行淳之介(1924~1994)さんらと派手に飲み歩いていたらしいが、その仲間の一人がチカちゃんだった。豪放なコンケイさんや女性にもてた吉行さん、そして官能小説で超売れっ子だった川上宗薫(1924~1985)さんらも含め、高い酒を浴びるほど飲み、その種の店でお金を最もボッタくられる不謹慎な行為を無軌道にやりまくっていた中で、最も慎み深いタイプのチカちゃんがなぜか「割り勘」という不条理を強いられていたようだ。仲間に奉仕・献身するチカちゃんの姿勢は、現在の千寿会での飲み会でも続いている。

そして日本棋院の中でコンケイさんを最もよく知るのが千寿師匠。コンケイさんは他人に師事することは少なかったようだが、碁だけは別で、千寿先生が怖かったらしい。碁の講義が終わって生徒同士でザル碁を打ち始めても常に先生の視線が気になり、「先生は新聞でも読んでいてくれ」と言って新聞を手渡したようだ。時折千寿先生が新聞から目をずらして対局をうかがうと、コンケイさんは必ずそれを察知して盤を手で隠したと言うから、実像のコンケイさんは案外シャイな方だったかもしれない。

亜Q

(2012.1.4)


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