碁を知らない人に、まず何を教えたいか

東京大学教養学部がこの10月、「全学自由研究ゼミナール」と呼ばれる正規の授業に囲碁を組み入れた。57歳の若さで急逝した加藤正夫前理事長が各界に提唱された「教育現場を通じた囲碁の普及、発展」の遺志が一つ花開いた。以下、本年10月20日付け東京新聞からしばらくつまみ食いさせていただく。

その母体となったのは、5年間の時限で教養学部に今春発足した教養教育開発機構。日本の教養教育のあり方を研究して、成果をモデルとして国内の他大学や海外の大学に提示するという同機構の使命にぴったりの講座として、「囲碁で養う考える力」を取り上げたらしい。

1、2年生を対象に、ガイダンスに出席した受講希望者110人に論文を書かせ、講座を受講したい気持ちが強い初心者40人(文系24人、理系16人)を選んだ。講座は来年1月までの全12回。囲碁のルールから始まり、実践的な戦略を学び、最終的には普通の碁盤(十九路盤)で打てるようになるまでを目指す。毎回、詰め碁の宿題が出るほか、日本棋院の殿堂資料館などを見学して、日本の伝統文化としての囲碁の歴史も学ぶ。日本棋院からは元東大囲碁部主将の石倉昇九段をはじめ、黒瀧正憲七段、梅沢由香里五段の三棋士がゲストスピーカーとして派遣される。大学の正規の授業に棋士を定期的に派遣する例は過去にないという。もちろん、受講者には単位が認定されるそうだ。

囲碁サイト「Monochrome Stones」を主宰するhidew論客がさっそく提案された。「碁のルールを教える前に、ビデオなどで実戦対局(十三路や九路盤でもよさそう)を繰り返し見せたうえで自由にルールを推理させたらどうか」と。思わずひざを打つ。講座開始早々、受講者の発想の豊かさを刺激する究極の良問かもしれない。知的偏差値が高い東大生がどういう回答を創り出すか、実に興味深い。

講座の期間中、関連講座として企業トップによる特別講演会「経営と囲碁」も開かれる。講座は来年度以降も続ける予定で、単位も本年度の1から2に増やされるという。願わくば、この講座が全国に広がり囲碁に親しむ人が増えることを切に祈りたい。担当者が変わるなどによっていつの間にか消滅することだけは避けて欲しい。

「経営と囲碁」と言えば、一流経済誌の 『Economist』 が昨年12月16日号で「Go〜The game to beat all games〜The mostintellectuality testing game ever devised?」と題する記事を掲載した。深山幽谷に踏み迷った樵(きこり)が仙人同士の打つ碁に魅せられ、気がつくと100年の歳月が流れて持っていた斧が腐っていたという例の爛柯(らんか)の故事を引用しながら碁の素晴らしさを紹介し、チェスのチャンピオンを破ったコンピューターも、囲碁では賢い10歳の子供に敵わない、チェスが“battle”とすれば、囲碁は“war”だと喩えている。

引用部分が長くなったが、私のオリジナル文章はごく単純。「せっかく碁を学校で教えるのなら、思い切って小学校高学年から教えませんか?」という“便乗提案”だ。と言っても、碁を知らない子供にルールを教え、すぐに石取りゲームをやらせても、これは単なるパズルの世界。計算が得意な子が連戦連勝してそれ以外の大多数の子供を囲碁嫌いにさせるのがオチだろう。これでは逆効果だ。

初めに教えたいのは、「人間社会の中で、囲碁ほどあだ名がたくさんあるものはない(と私は思う)」こと。例えばクラスの中でたくさんあだ名をもらっている人がいる。多数のクラスメートが彼(彼女)に関心を持ち、時・所・場面に応じていろいろな表情を嗅ぎ取るからだろう。早い話、クラスの人気者だからこそあだ名が多いのだ。

囲碁だって同じ。姿色形から「方円」「烏鷺」「甲長」、ゲームの性格から「手談」、故事から「爛柯」「橘中」「忘憂」——。まだまだありそうだが、私の記憶容量では思い出せない。ついでに、三国志や源氏物語、枕草子などで取り上げられた碁の逸話や遣唐使が碁を通じて交流したことなども紹介したい。こんなことを聞けば、子供は何となく碁に畏敬の念を感じる。ルールや遊び方はわからなくても、何千年も前から碁は人間社会と密接に関わってきたこと、それだけ人間が碁に夢中になってきたのだと知る。

いったん、碁に対する敬意を植え付けられれば、受験勉強などでしばらく遠ざかっていても、いつかどこかで思い出す。心のゆとりができたとき、知的なものに触れたくなったときなどに、ふと始めてみようかという気になる。

碁は英語や読み書きそろばんなどの実学とは違う。音楽、絵画、工芸のように目や耳にすぐに飛び込んでくる具象的なものでもない。むしろ、何に役立つのかも判然としない抽象的な概念、価値観だと思う。気をつけなければいけないのは、勝った負けただけの矮小的なゲームではないことに気づかせることだ。その意味で、いろいろな解法がある数学に近いかもしれない。と言って、すぐに計算だ、証明だと速さと正確さを競わせ、過半数の人を数学嫌いにさせる愚は心して避けたい。論理の道筋を立て、(弱くても、悩みながらでも)自分なりの価値観を構築していく過程こそが碁の醍醐味。碁を知らない、全く白紙の状態の時点だからこそ、碁がなぜ人間に必要か、なぜ魅力的なのかをしっかりインプットしたい。

もっとも、囲碁だけを特別扱いするのは気が引ける。いわゆる「琴棋書画」に加えて和歌、俳句、音楽、その他古典芸能なども当然組み込みたい。小学校4年生程度から中学・高校にかけて週2時間程度、おっとりゆったりと文化教育を継続したい。肝心なのは「技芸に走らない」こと。例えば音楽なら、音符の読み方や演奏法ではなく、「楽しみ方」「人間との関わり」を知ってもらう。うまく歌えたり楽器を弾けたりはその次の話だ。音痴だからといって音楽が嫌いになってはつまらない。和歌でも俳句でも解釈より、誰がどう生きてそれぞれの道を拓いていったかが肝心。要するに、囲碁を含む文化とは、とどのつまり人間賛歌の学問なのだと思う。

亜Q

(2005.11.1)


もどる