『天地明察』レビュー

『天地明察』(冲方丁著、2009年11月 角川書店刊)

江戸時代の囲碁棋士が主人公の小説『天地明察』を紹介します。

―― 士気凛然、勇気百倍。
―― 天に触れるか。

公の暦をなすとはいずれの人々にも不安なき明日が来るという「泰平の時間」を科学が約束する政(まつりごと)。時は江戸四代将軍家綱の頃。刀を抜いての戦いは出てきません。いくさは人を斬るだけではない。本書は江戸科学の戦記です。

中国から取り入れられた暦は八百年を経て日本の実際の時間と大きくズレが生じており、見直す必要がありました。

主人公は江戸時代の天文暦学者、渋川春海(しぶかわ・はるみ/しゅんかい)。のちに日本独自の太陰暦を完成し江戸幕府初の「天文方」の職に就いた人。囲碁棋士・二世安井算哲として江戸城に上がっています。同時代には七歳下に碁聖・本因坊道策や日本の算学を大きく発展させた同年齢の算聖・関孝和がいます。

物語の春海は形式的な勝負しかできない碁に「飽きて」おり道策にいくらその才能を認められようと身を入れられず、好きな算術では明晰な関の後塵を拝するばかり。二刀を煩わしげに腰に提げ、茫洋として見える二十三歳の「囲碁侍」です。

神社で書き留めた算術の問題を城内の碁盤の上にまで持ち込んで十七歳の道策に叱られる春海。
その春海が新たな任務を命じられました。彼は陰陽が源と言われる囲碁のほかに算術や神道にも通じて測地も得意としていました。

「退屈ではない勝負が望みか」

春海作成の「天文分野之図(複製)」(国立天文台三鷹キャンパスの「渋川春海と『天地明察』」展にて)一般的に用いられている88星座と同じものも見えます。

「天文測量」という思いがけない下命に戸惑い幾度も挫けそうになりながらもこれを本懐と、春海は暦を見直し作り上げる何十年もかかる事業に全身全霊をを注いでいきます。

空や数理や碁、彼と出会った人々が絶妙のバランスで「渋川春海」をかたちづくっていきます。春海の後ろ盾となる水戸光圀、保科正之、ともに観測に携わる建部昌明・伊藤重孝など脇役が器大きく豪快、春海が憧れる関孝和は彼とは対照的な孤高の算学者。軽みのある人物造形が特徴で、とくに道策が可愛らしい少年でびっくりしました。

作中の天文学や算術に惹かれる読者もいるでしょうし、囲碁をたしなむ方ならもちろん当時の御城碁や周辺事情の描写に興味を抱くでしょう。

春海の初手天元の碁(寛文十年(1670年)十月十七日。二世安井算哲(黒)対 本因坊道策)

算哲こと春海が道策に試みた初手天元の逸話もこの物語の一片となっています。この一局から春海が多くの人に意義を理解されない改暦事業を進展させる想を得る、という描き方はわたしには殊更面白く感じられました。

『天地明察』は「退屈ではない勝負」を求める多くの人に愛されることでしょう。仕事や学問などで行き詰まりや挫折を味わったことのある人、今何事かを成し得たいと苦しい状況であがいている人ならきっと春海の志を最後まで追いたくなるはずです。

冲方丁(うぶかた・とう)の初の時代小説。
2009年11月 刊。第三十一回吉川英治文学新人賞、第七回本屋大賞受賞作。

作者は高校生の頃に渋川春海に興味を持って以来十数年この人物を描きたいと思い続けてきたそうです。ゲームやアニメ、漫画原作、ライトノベルなどジャンルを越えたクリエーターとして活躍してきた氏ですが、「『春海さん』のことは自分の原点である活字で表現したかった。これが作家としての自分の出発点である」と。作者がこの物語に賭けた姿勢は作中の春海と重なるようです。

作品として未熟さも見えるのですがそれを差し引いても余りあるすがすがしい熱さに身震いします。

もっも

(2010.5.8)


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