10,000時間

 世界的コンクールで優勝するような音楽家や工匠、囲碁や将棋の名人上手、トップアスリート――。スポーツ、芸術、技能、どんな分野でも、そんじょそこらのアマチュアなど全く寄せ付けない圧倒的な力量を誇示するプロフェッショナルが存在する世界がある。凡人から見ればため息が出るほどの才能は、神様が気まぐれに配給したギフトなのだろうか。

 分子生物学者の福岡伸一氏が日経新聞夕刊コラム「明日への話題」で、こんな調査を紹介していた。これらのプロフェッショナルたちは、いずれも同じような“形成プロセス”を踏んでいるというのだ。このプロセスとは「ある特殊な時間の共有」。どんな分野であっても、幼少時を起点とした「10,000時間」、例外なくそのことだけに集中し、専心し、たゆまぬ努力をしているらしい。

 DNAの中には、ピアニストの遺伝子も棋士の遺伝子も存在していない。DNAには、人を「生かす」ための仕組みが書かれてはいるが、いかに「活かす」かについては一切記載はない。プロの子弟はしばしば同じ道を進むことが多く、それは一見、遺伝のように見える。けれどもおそらくはそうではない。親は遺伝ではなく環境を与えているのだ。やはり氏より育ち、これがDNA研究者の偽らざる感慨だと。

 そう言えば、三大タイトル独占、七大タイトル全制覇、10期連続本因坊位など囲碁界唯一の勲章を数多持つチクン大棋士は6歳で来日して11歳でプロになった(ご参考)。この5年間で「最初の10,000時間」をクリアし、その後、坂田・秀行に代表される昭和の大棋士を追い、次いで美学大竹、二枚腰林海峰、殺し屋加藤、コンピューター石田、宇宙流武宮ら“五強”に挑戦、さらに小林光一とともに二強時代へと、数次にわたって「10,000時間」を繰り返してきたのだろう。

 この話を千寿会の好敵手かささぎさんに向けると、「10,000時間と言っても1日3時間実行すればざっと10年。何や、これしきのことなら自分も勤務先やネット碁で毎日精進しとるデ」とケロリ。ちょっと待って、ちゃうだろうが〜。頭がさび付いた今ごろになって始めても、もう遅いわい。それに福岡氏の文脈をたどれば、実行するのは遊びごとではなく、自己の全存在を賭けた“果たし合い”にも似た難行苦行。何年も休まず継続するのは並大抵ではない。さすがはノーテンキ教祖、何ごとにもめげずに前向きに受け止める姿勢は敬服するが、やっぱりピントがずれたみたいだ。

亜Q

(2008.9.2)


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