神様は返事を出さない

伝説の、ではなく実在の4割バッター、テッド・ウイリアムスの引退試合。これでお別れという最終打席で、テッドは見事なホームランでフィナーレを飾ったそうだ。

しかしテッドはいつもの通りニコリともせずに淡々とベースを一周してダッグアウトへ戻ってしまう。打たれた相手投手への思いやりもあっただろうが、何よりも「自分はプロとして当然の義務を果たしたしたまで」と言う、冷めた自己抑制が感じられる。天才の離れ業に陶酔し、覚めやらぬ歓呼の声を受ければ、改めて観衆の前に顔を出して手ぐらい振りそうなものだが、それもしなかった。テッドは、野球という派手やかなパフォーマンスでファンの喝采を浴びる並外れたエンターテイナーではなく、孤高を保ち、完全・潔癖を目指す一介の求道者だったらしい。

あるジャーナリストがこのシーンを伝えて、思わずうなりたくなるようなお洒落なタイトルをつけた。「神様は返事を出さない」――。

最近、ポツリポツリと棋士のブログが産声を上げている。囲碁はまさに“棋道”であると同時に、私のようなザル碁・ミーハーを含むファンあってこそ「強くなろうとする意思」や「楽しみの総量」が増幅していく至高のマルチコミュニケーション文化だ(こんな言い回しはなさそうだが^^;)。その意味で、「公開する日記」形式でファンへのメッセージを送る棋士ブログは熱烈歓迎。棋士とファンとが交流できる場やタイミングはとても限られているから。

中でも訪問者が多いのは、人気抜群の梅沢由香里姫が主筆する「つれづれ日記」だろう。私も毎日楽しみに読んでいるのは「ずっこけインタビュー」で述べた通り。これに対して、県代表常連クラスのアマ棋客が主宰する、抱腹絶倒のエンターテインメント系ブログ「osama先生のアマ日本一への道」が“軽い注文”をつけていた。最近スタートしたばかりの種村小百合プロのブログと対照させながら、「由香里姫も(小百合嬢と同じように)ファンからの投稿にコメントをつけて欲しい」と。

確かに、由香里姫や小百合嬢から直接返事をもらえば誰でも舞い上がる。でもそれは、ないものねだりかも知れない。二人をテッド・ウイリアムスと並ぶ“求道者”と言うつもりはないが、聖徳太子みたいに誰の願い事も聞き入れ、個別に心を込めた対応をするのは難しいだろう。特に由香里姫のように「公人の度合い」が高そうな棋士は、ある人に返事を出して別の人には出さないといった“気まぐれ”はなかなか容認されにくい(このあたり、当サイトで折に触れて神出鬼没のご降臨をなさるチーママはさすがに捌き上手だが)。

シューコー流に言えば「孤を立てる」、テッド・ウイリアムス風なら「神に近づく」――。「神様のなしのつぶて」については古今東西、いろいろな人が小説に仕立てているらしい。例えば、碁を愛された狐狸庵先生(禁煙・宇宙棋院を創立し、自分より弱い人としか碁を打たなかったと言われる遠藤周作さん)は、深い愛と高い志を持って献身的に神に仕えた人が過酷な運命に襲われるといった手筋を著作に多用されていたような気がする。

私事になるが、小学校に上がるか上がらないかの頃、飛び切りのヘボだった父親の盤側でいつの間にやら碁を覚えてしまった自称・神童が、以来ン十年間清く正しく精進を重ね、とりわけこの10年ほどは他の趣味をないがしろにして囲碁一筋に投資を重ね(大半が飲み代かも知らんが)、嗚呼、それなのに神は私をして未だにザル碁の地位から脱皮することをお許し賜はらぬ――。そうか、納得。私こそは現代の“聖なる受難者”なのだ。

亜Q

(2005.10.21)


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