わが偏見〜“最強プロ” はこの方ではないか ④

 アマに勝たせない“最強プロ”の要件は「くそまじめ」ではなかろうか。自分が価値観を抱く対象を前に、いい加減な妥協やなおざりを排して我知らず夢中に取り組んでしまう「青臭さ」と言ってもいいかもしれない。そしてこの性向を色濃く持ち合わせているのは、いわゆる団塊世代より上、戦中から戦後にかけての「貧しい日本」「虐げられた日本」を骨の髄まで味わった熟年の男性棋士だろう。

 だから大坂田、流水不争先の高川、石心梶原、反発・孤高の人・橋本宇太郎、変幻山部(敬称略)といった「昭和の大棋士」と言われるような名棋士はアマにめったに勝たせなかったのではないか。経済大国といわれて久しい今でも、飢えた世代の血を脈々と受け継いでいるように見えるのが、失礼な言い方かもしれないが、私的には敬愛を込めて呼びたい“不器用なオジサン棋士” たちだ。

 その一番手に挙げたいのが、日本棋院きっての好人物、 “アベチャン”こと安倍吉輝九段。65歳を超えた今も日本棋院に足繁く通われ、親切で面倒見がいいから上からも下からも慕われているそうだ。ところがひとたび石を握れば、私ごときザル碁アマ相手にも本来の温厚な表情は決して覗かせない。たまに宮城弁まじりの独り言をつぶやく以外はほぼノータイム。一手一手気合鋭くパシッと打ち据え、じろりと睨みすえる。四隅で同じ形が現れることはない。少なくとも私は見たことがない混沌たる場へとアマを必ず誘(いざな)ってくださる。100局打てばおそらく四隅合わせて400通りの変化が出来上がるに違いない。

 さながら“ドラエモンの何でもポケット”。そう言えば、安倍先生はあまたの棋士の中でも随一の定石通であり、古今の名局をそらんじる囲碁博士(ご参考までに、千寿会の碁友たくせんさんがまとめてくれた「実録囲碁巷談〜深夜の怪笑」、そのすぐ後に私が書いた日本棋院見学記などをご覧ください)、「アマの知らない布石」やら「ハメ手・裏定石」やら「プロでも間違える難解定石」やら、その種の著作は数知れず。“アベエモンの何でもポケット”を前にしてアマはひれ伏すしかない。

 もう一人は上記「実録囲碁巷談」の著者、テンコレ文士こと1932年生まれの長老、中山典之六段。長野県下の進学校、上田高校を卒業後、苦労して30歳でようやくプロ入りされた遅咲きの棋士。「我流の力碁で何とかプロ入りできた才能乏しき凡夫」と自ら書かれている。しかし、と言うよりだからこそ、アマには恐ろしい。碁盤に向かえば相手が玄人か素人かは問題外。ただ黒と白の烏鷺がしのぎを削る戦場とばかり、常に最強の手段で押してこられる。

 そう言えば、もう10年近く経つが、テンコレ文士がアマ時代に切磋琢磨されたという長野県代表クラスのO強豪の話を思い出した。O強豪は地元で天狗道場を営むかたわら、日本棋院長野支部主催の囲碁セミナーに事務局として参加していたが、酒の席の勢いだったか、お客さんの某五段氏を相手に6子置かせる賭け碁をやってコテンパンにやっつけてしまったことがあった。客の某五段氏はその後ふっつりと来なくなってしまったという。段位などというものは概していい加減なものだが、この種の大会に自己申告して来るからには自信があったのだろう。それが「プロに対するより2子多く置け」と挑発され、散々に負かされ、お金まで巻き上げられた。そのことがあったせいか、O氏も同大会に顔を出さなくなった。

 私は賭け碁を絶対にやらないが、ザル碁アマにとって“プロより強いアマ強豪”は確かに存在する。その一人が健二さんも認める小林ファミリーの猛父・正義氏だし、トップアマ四天王と称された平田、菊池、原田、村上各氏らもその仲間だろう。もちろん、プロならばアマ相手に真剣勝負すれば常日頃より2子多く置かせても勝ち切ってしまうだろう。しかしプロには弱点がある。対局前に一言「棋譜を公開する」と言えばいいのだ。プロには矜持があるから、さすがに悪辣なことはしてこない。手がないのに相手のミスを待って無理やりごちゃごちゃやったり、アマ相手に度を越すような悪粘りもしてこない。アマ四天王クラスになればこの点は同様だが、それでも今では廃案とされているような難解定石やハメ手を繰り出してアマを困らせることはするだろう。そう言えばハンス・ピーチが四段に昇段したお祝いの席で、原田実氏が昔の難解定石を繰り出して見事勝ったことを思い出す。

 テンコレ文士の碁をこうしたアマと比べるのは誠に非常識のきわみ。しかし私には、いまどきのスマートな若い棋士たちとは違う匂い、いい意味での泥臭さ、人間の哀愁といった風なものを感じられて仕方がない。そう、喩えが適切かどうかはわからないが、私が青年時代に感激し、今でもカッコいいと思う阿佐田哲也の「麻雀放浪記」の世界。テンコレ文士の著作は多いが、代表作は盤外記など周辺の読み物。囲碁そのものの技術論は、「加藤実戦講座」とか「小林流必勝置碁」とか「宇宙流序盤構想」などはいずれも他の棋士の碁をライターとしてまとめたものばかり。自分はあくまでも脇役なのだ。

 その彼が、ライフワークとされている囲碁いろは歌の最終章(訣辞)でこんな風に詠んでいる。(カッコ内の読み仮名は亜Q注釈、旧字体で表せなくて誠に申し訳ありません)

無為の浅智慧 凡夫老ゆ 空音(そらね)幕終へ 我消えぬ
せめても名残(なごり) 詠みにける いろは清(すが)しや 歌つどひ

 そしてこの正月には年賀状代わりにこの新作。

遠路はるけし あめつちを さすらふ旅よ 囲碁に老ゆ
いま八十(やそ)へぼ手 消え失せぬ 吾 無我となり 峯の雪

 自分を「凡夫」と呼び、大きなタイトルとはついに無縁だった棋士人生からの引退を視野に据えて、歌詠み三昧の生活。作務衣を着て碁を打つ姿は村夫子然として、稽古碁とは言っても全力でアマを粉砕する。そのカッコよさに私はしびれる。彼が自伝を書いたら真っ先に読みたい。

 さて、我が偏見をかき集めてようやく“最強プロ”ナンバー1の番になった。若いころから鬼才を恐れられ、今なお「般若」先生と称せられる酒井猛九段その人だ。ひと頃はリーグ戦の常連で目利きのプロの間で高い評価を受けていたらしい。今は日本棋院理事として改革を進め、ネット棋院の運営にも腐心される多忙な毎日だから、来年早々還暦を迎える彼に「もう一花咲かせよ」と求めるのは難しいかもしれない。しかしアマに対する強さと言ったら、「碁聖道策」を髣髴とさせるものがある。

 まず碁を打つ姿が違う。ピンと背筋を伸ばし表情は一切変えないし、つぶやくこともしない。石を持つ手はおそらくあまたの棋士の中で最も美しいだろう。細く長い指先がしなり、込み入った場所でもピシッと急所に石を滑り込ませる。

 私には酒井九段に道策が憑依したもののように映り、ただただその打ち回しに酔いしれるばかり。序盤に配された白の孤石は臥竜(がりゅう)。今は孤立していても風雨を得れば天に昇る。黒の陣内に白い鳥が舞い降りて産みつける卵は鳳雛(ほうすう)。時至れば巣を出でて黒陣を蹂躙する。中国の古典・三国志を目の当たりにする心地だ。もちろんこれは、私ごときザル碁に対してだけではない。県大会常連クラス、あるいは大学囲碁部出身の腕自慢に3子も4子も置かせて悠々と勝ちきってしまうのだ。これを「美」と言わずに、何をもって美を論ずればいいのだろう。

 酒井九段は高木祥一、福井正明、石田章、故・上村邦夫(敬称略)らと並んで「無冠の帝王」と呼ばれることがあった。誰しもが認める才能を持ちながら、大きなタイトルを獲得することはなく、時の覇者の引き立て役だったという意味では、近くは梶原、山部、遠くは幻庵因碩らの系譜と言えるのだろうか。しかしその足跡は記録より心に残る。

 我が偏見に基づく「最強プロ・ベスト3」安倍、中山、酒井の三方には共通点が一つある。歌がうまいことだ(実はテンコレ文士の歌は聴いたことがないが、あのシブイ声からして、三橋美智也の「武田節」や粋な端唄、新内などが玄人はだしではないかと妄想する)。安倍九段は吉幾三、酒井九段は森進一。年齢を超越した声量と美声の持ち主だし、レパートリーも広い。感情表現なども実にキメ細やかでうっとりしてくる。この年代の男性はろくに音楽教育を受けていないから大概下手なのだが、どうしたわけだろう。そうか、頭がいい男性は歌がうまいのだ!ところで、我が碁友のかささぎさんはどうだったかしらーー。

亜Q

(2007. 3. 29)


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