澁澤真知子教室訪問記・下

 日曜日の朝の頭の体操を終えた幸せな親子二組が引き上げると、我々3人が楽しみにしていた昼食の時間。母上自ら手づくりされたランチを振る舞っていただけることになっていたからだ。今回の訪問に先立つ4月中旬、私が「真知子先生の教室をお訪ねしたい」とご自宅に電話を差し上げると、真知子先生はあいにく不在。代わりに出られた母上に私の名前と真知子先生と出会った経緯を簡単に述べると、何と母上は私をご存知だった!「真知子はご連絡いただいてとても喜ぶと思う。後で本人から連絡させるが、午前中の教室を覗いてもらって午後に碁を打たれたらどうか。ついては昼食を用意したい」とおっしゃられた。そしていきなり「グリーンピースはお好きですか?」と。

 一面識もない私ごときに示された母上の飛びっきりのご厚意。もちろん私は狂喜したが、それ以上にびっくりした。今拙文をお読みいただいている諸兄も不思議に思われているのではないか。私が敢えて当て推量を試みれば、これにはささやかなご縁がある。

 今からもう10何年も前のこと。水曜日の午後、私は勤務先を抜け出して市ヶ谷の日本棋院で「有段者特訓講座」(講師は今は亡き菅野清規七段=千寿会講師のジョーと共に勉強会を主宰されている昌志六段の実父・尚美三段の岳父)を数ヶ月間受けたことがある。当時のことは本サイト雑記帳の「ウックンの強さ」で少し触れたが、講義が済んで2階の一般対局室を覗くと、当時院生だった真知子さんが自分の打ち碁を並べて酒井猛九段にマンツーマンの指導を受けていた。図々しい私は会釈一つでにじり寄り、いつも特等席で拝見させていただいた。酒井鬼教官は真知子院生に石の効率、方向、タイミングなどを繰り返し繰り返し叩き込み、その間、笑顔は一切なし、もちろんほめ言葉もなし。あまりの厳しさに真知子院生の目がウルウルしていたこともあったようだ。今よりさらに輪をかけたザル碁だった私には内容はチンプンカンプンだったが、ひたすら真理を説く鬼教官の愛情と、それを理解しようと努める発展途上の院生のひたむきさは心深く伝わってきた。

 この時私は彼女に名刺を差し上げたかどうか覚えていないが、まだ10代だった彼女は私の手帳に誕生日、血液型、星座を書いてくれた。私は彼女に「早くプロになって僕に教えてくれ」といった意味のことを伝えたと思う。しかしこの頃、彼女はとても悩んでいたらしい。院生同士の昇段試験では今一つ勝ち切れず、ついに年齢制限をクリアできずに院生を終了。しかし神は彼女を見捨てなかった。その後、協和発酵杯東京都大会優勝などの実績を経て2000年4月、24歳・外来枠で晴れて日本棋院初段を勝ち取った。この頃、酒井プロとの特訓は終わっていたらしいが、鬼教官は「彼女の前で自分はまさに鬼だったが、真知子さんがプロになれた時はうれしくて涙が止まらなかった」と後に述べておられる。

 それから2、3年後、つまり彼女の星座などを聞いてから7、8年経っていただろうか、私は念願かなって真知子プロの指導碁を受けに八重洲の日本棋院を訪れた。私も昔よりは強くなっていたから多少は碁になったが、もちろん負かされた。真知子プロの丁寧なポイント解説をいただいた後で私は名刺を差し出し、「私を覚えていますか」と尋ねるとすぐに「覚えています」と言ってもらえた。私はとても満足して仕事に戻った。それ以来彼女とは会っていないし、連絡も取っていない。彼女が10代の時にお目にかかり、20代の中ごろに一度再会しただけの通りすがりの一ファンに過ぎない私を、真知子プロの母上が「娘は私に何でも話してくれるから覚えていた」と言われ、食事まで振る舞ってくださるという。我ながら何たる果報者。さっそくかささぎさんやチカちゃんに呼び掛けると、当然ながら「僕もぜひともグリーンピースを食べたい」とすぐに乗ってきた。

 母屋から教室に運んでいただいたランチは、これを読まれている方にはまさに垂涎の的だろう。おひつには山菜などを炊き込み、大きなグリーンピースをたっぷり乗せた混ぜご飯。底の深い大きな鍋には玉ねぎと麦飯を煮込んだ特製スープ、そして漆の重箱に詰めた黒豆、ワカメの茎、小魚、きのこなどの取り合わせ。ただし私は惣菜の中身や調理についての知識も教養もない。せっかくの料理を十分描写し尽くせないことを誠に残念に思うが、ともかく私たちはみんなお代わりをいただき、真知子先生と4人で昔話をしながらの至福の時を過ごした。

 この後、真知子プロから3人並んで指導碁をしていただいたが、その合間にうかがったお話をいくつかご披露させていただこう。まず、棋士になろうとしたきっかけが変わっている。彼女が自らしたためた経歴書には、生年月日の次に「1987年(8歳)囲碁修業開始」とある。始めたばかりだからもちろん強くはない。祖父のところには立派な碁盤があったらしいが、父親・母親を含めて周囲に碁をたしなんだ人はいなかったし、誰も棋士になれとはけしかけなかったのに、彼女は「プロ棋士になろう」と決意したのだそうだ。まだ世の中のこともわからない小学校低学年の少女がなぜ棋士を志したのか。これには「女性も手に職を持て」という母上の信念が背景にあったようだ。

 母上の啓子さんは上智大学文学部教育学科を卒業された後、東京医療専門学校で学ばれてはり師・きゅう師の資格を取り、翌1981年に現在の高井戸治療室を開業された。「生体エネルギーを高めて自然治癒力を増す」ことを基本理念として、「音素診断法」や独特の筋力テスト、「元素治療」、手指、耳などに施す鍼法、「イオンバンピング療法」、灸療法、光線療法、アロマテラピー、マイナスイオン療法など昔ながらの鍼灸に新たな息吹を注ぐ医療師であるとともに研究者でもある。そんな母上の背中を見つめながら、8歳の真知子さんは天啓のように囲碁に出会い、プロ棋士への道をひたすら歩み始める。こうした自主独立の精神は、日本経済界に偉大な足跡を残した大巨人を輩出した澁澤家代々に脈打つDNAなのかもしれない。

 4年後の12歳の時、東京都少年少女囲碁大会で6位に入賞、日本棋院の院生として瓊韻(ケイイン)社を興された冨田忠夫名誉九段門下に入り、3年間の内弟子修業を経て、緑星学園のリーグ戦に参加された。私が真知子さんにお目にかかったのは、この1990年代前半の頃だったろう。

 プロ入りする少し前の90年代の終わりごろからテレビやイベントの囲碁解説の聞き手役として活躍が始まる。真知子さんはいろいろなタイプの解説者と無理なく調和しながら視聴者が聞きたいポイントを整理して聞き出す。頭がいいのにとても控え目な彼女にとって、この仕事はまさに天職のように私には思える。

 プロ入りしてからの手合い実績は今ひとつ上がっていない。自分を前面に出さないこの控え目な性格があるいは災いしているのかもしれない。しかし最近になって、私は二人の棋士から朗報をうかがった。まずは恩師の酒井猛九段。「棋士には誰でも勝てない期間があり、“低迷回路”に入り込むことがある。この期間は棋士にとってとても辛いものだが、これを脱すると一皮剥ける。幸い彼女はこの4月ごろから碁の内容がとてもよくなった。これからが楽しみです」。もう一人は千寿会講師の小林健二七段。「最近研究会などで彼女が発言することが多くなった。しかもその内容がとても高度で感心させられた」——。

 悪乗りを承知の上で読者諸兄のご寛容を賜り、ザル碁アマの私も一言便乗させていただこう。八重洲でご指導いただいた時から数年経って、彼女は指導法、あるいは自分の碁に自信を持ってきた印象がある。お顔を拝見すると初めてお会いした頃の少女のままだが、話し方や内容は数年間のプロ生活で洗われ、いい意味での貫禄がにじみ出ているように見える。遅咲きだが大輪の花を咲かせる潜在能力が今表に出ようとしているのかもしれない。

 ところで、遅咲きと言えば彼女のおめでたい話はどうなっているのだろう。院生仲間のヤッシー(矢代久美子女流本因坊)をはじめ、加藤啓子女流名人、青葉かおり四段といった後輩たちが相次いで結婚する中で、「私は一生お嫁さんにはなれないかもしれません」と屈託なく笑う彼女の表情はとてもおっとりしている。いつまでも少女のような真知子さんだからそれでいいのかもしれないが、もしも私が20年ほど若く独り身ならば、「真知子さんこそ地上に遣わされた碁界の天使」とインスピレーションを受けて、断固お嫁さんにいただきに上がるのだが——。

亜Q

(2007.5.14)


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