会友・大坪英夫氏に大倉喜七郎賞

千寿会会友の大坪英夫さんが本年度の第39回大倉喜七郎賞を受賞された。同賞は、邦楽、オペラ、クルマから囲碁まで、19世紀から20世紀にかけて“坂の上の雲”を目指した日本の文化発展に貢献した「バロン・オークラ」こと大倉財閥の2代目、喜七郎氏を記念して制定。プロ・アマを問わず、囲碁界の普及・発展に尽くした貢献者を対象とし、年間最優秀棋士を表彰する秀哉賞と並ぶ囲碁界最大の顕彰イベントだ。棋戦を主催する新聞・テレビなど報道機関、航空会社や任天堂などのお偉いさんが受賞する例が多いようだが、棋士では故岩本薫、中山典之さん、退役された白江治夫さん、現役では杉内雅男九段、アマ碁界では菊池康郎、原田実氏ら、政界では与謝野馨、渡部恒三氏らにも贈られている。

大坪さんは1934年生まれ、東大法学部を卒業後大手銀行に入行してエリート街道をひた走られたようだが、40代末に腰を患い長期休養して頭取レースを脱落。勤務に復帰して間もない53歳の時に民間企業への転職を志した。志願先は東京精密。計測機では先端的な技術を知られた第1部上場の老舗企業だが、当時は技術革新と経営改革の波に乗り遅れて危機的な赤字体質に陥っていた。「あの会社はやめたほうがいい」とアドバイスされることもあったらしいが、「赤字は大きいほうが立て直しやすい」と入社を決断した。4年後に社長に就任した大坪さんはまず、製品ごとのグループリーダー制を導入して組織を改革。すべての製品を設計段階から見直して部品数を半減するとともに内製化率を向上。さらに「世界ナンバー1の製品作り」を目標に掲げ、「いざとなれば本社を売り払う」覚悟で自己資金を開発につぎ込んだ。

大坪さんは会社の存在を、物事の無秩序状態の度合いを示す「エントロピー」という熱力学の概念でとらえる。「動かざれば退く」、つまり会社はつぶれるのが自然の摂理であり、つぶさないように努力する積み重ねが、辛うじて会社を存続させているに過ぎない。この法則に反して成長するには、常に危機意識を持って情報のアンテナを広げ、社会全体でエントロピーが必ず増大していく中でいかに周囲とWin-Winの関係を保ちながら維持発展させるかに四六時中チエを絞らなければならない。ドイツのカール・ツアイス社をはじめ世界的な会社とも積極的に提携した。その結果、ものづくりの母体となる真円度測定機やウエハー薄片化のニーズに適応した半導体製造技術など世界一の製品群を相次いで生み出し、高収益体質を定着させるとともに会社の価値(時価総額)を一気に10倍以上高めた。

この間、いつも順風が吹いていたわけではない。新技術開発に失敗はつきものだし、取引先が問題を発生して足をすくわれることもあったらしい。しかし大坪さんは、どんな苦境に陥っても社員のリストラには手を染めなかった。大坪さんは世の指導者、経営者などへの批評精神はまことに辛辣だが、多くの庶民に対する眼差しはとても優しい。大坪さんの父君は、零戦戦闘機などの開発で日本の航空機製造の草分けを担った中島飛行機の技術部門を率いていたが、同社が戦後に解体される際、部下の再就職先への紹介状を数千通も書き上げる途中で急死された。大きな戦争の片隅で自分の安全を脅かされながら多数の人間の命を守ったシンドラーや杉原千畝は、形こそ違え、中島飛行機にもいたのだ。上に立つ者の責任・矜持を、大坪さんは父親の急死という悲しい体験から身に着けられていたのだろう。

そして1999年、長年の宿願だった碁界への貢献を「東京精密杯・女流最強戦」の設立という形で実現した。32名の選抜棋士によるトーナメントと決勝3番勝負を争う同棋戦は、大坪さんが東京精密の会長を退いた2005年以降も続き、2008年の第10期をもって終了したが、国内で初めて6目半のコミを採用した先験的な棋戦として歴史に残るだろう。

以上の話のうち、大坪さんから直接伺った部分はわずかだ。大坪さんがこの2月に出版された「赤字は大きいほうがいい~Win-Winの経営論」(幻冬舎ルネッサンス)という近著からの抜粋が多い。大坪さんは本書を「2人の息子への遺言代わりに書いた」と言われるが、31年間の銀行生活と17年間に及ぶ企業経営者として蓄積された「大坪語録」は並みの経営書では得られない示唆に富んでいる。「若いころ自分はE(entrepreneur=起業家)型人間だったが、その後A(administrative=管理職)型に移り、70歳を超えた今ではZ(ゾンビ)型になろうとしている」とクールにご自身を語る姿勢にはつくづく敬意を感じざるを得ない。

最後に、大坪さんの碁に触れてみたい。実力はまさに天下六段。プロ棋士との稽古碁ではしばしば先で打たれるが、かなり碁になっているようだ。終始一貫して既着の石を活かす精神に充ち溢れ、決断は早い。私は「経営と碁は関係あるのですか」と愚かな質問をしてみたが、「まるで別物です」とはぐらかされた。稀代の快男児・大坪英夫さんには、逆立ちしてもかないません。

亜Q

(2010.3.26)


もどる