ジワリ、大竹流

 日本棋院に登院する棋士、通勤する職員の服装が様変わりしているようだ。この8月、棋院の担当理事名で「棋士は囲碁界において指導的な立場にあることを自覚して、所作とともに身なりにおいても囲碁ファンが不快を覚えないよう心がけよ」といった趣旨の通達があり、手合いや業務のために棋院に登院したり棋院行事等に参加する際に、不潔・不衛生な服装を避け、Gパン、Tシャツをはじめ短パン、サンダル、ピアス、タンクトップなどを慎むよう各棋士に呼び掛けたらしい。これは「上着、ワイシャツにネクタイ着用」といった“強い縛り”ではなく、最低限のマナーを守ろうという比較的緩やかな内容だが、こうした動きは関西棋院や棋院職員にも影響を与えるだろう。

 こういう話を聞くと、私は反射的に顔が赤くなる。すぐれて自己良識に関わる部分を他人から言われたくないし、もちろん他人に言いたくもない。「中学校の制服でもあるまいし、大のオトナが(個人の良識や裁量を無視されたように)服装まで規制されるのはいかがなものか」といった反発は当然あるだろうし、環境への配慮も伴って永田町を中心に広がり始めたクールビズ時代に逆行するようにも見える。何よりも、中国、韓国、台湾などの棋士組織には内緒にしたくなる「恥ずかしい話」にも映る。しかし、どうやらこれは「日本棋院改革の象徴」と位置づけられているようだ。

 服装だけではない。遅刻や欠勤への対応を見直すことも検討されているらしい。例えば手合いに遅れると、遅刻した時間の3倍(従来は2倍)を持ち時間から差し引いたり、休場は理由の如何(たとえ病気や家族の事故であろうと)を問わず報酬ゼロとするといった案が提起されているという。棋院スタッフを含む棋士多数の賛同を得られるかどうかはわからないが、きちんとした形で手合いを遂行できなければ当事者が結果責任を取るべし、という精神なのだろう。棋院の罰則規定は一般社会に比べるとあるいは緩めだったかも知れない。米長改革が浸透する将棋連盟は服装、罰則ともかなり厳しいとされるが、囲碁界も鷹揚・寛容だったこれまでの姿勢をかなぐり捨てようとしているのだろうか。

 旗振り役はこの人、木谷門下の総帥格・大竹英雄名誉碁聖。この春、小林光一九段に代わって日本棋院副理事長に就任されたばかり。自分の手合い、棋院業務の際はもちろん、アマ相手のお稽古でも、こと服装に関しては小林覚元棋聖・碁聖と並んで一切手抜きなし。オンとオフのメリハリをつける——これも“大竹美学”の一環なのかもしれない。

 個人的な話になって恐縮だが、実は私は悪人や弱者を対象として法律や規制などで人間の行動や思考を縛る法家思想よりも、(所詮は空理空論かもしれないし、少々気恥ずかしいけれど敢えて言い切れば)“相互の良識を信頼し合えるフェアなオトナ社会”では、性善説に基づく道家思想こそが望ましいと思う。「我に理非を説くな、激しき雪が好き」と詠んで自死した思想家の気持ちに、信条や主義を超えて共感したりするのだ。

 日本棋院と言えば、もちろん日本、いや世界の中でも最も知的であるはずの集団が揃う組織の一つ。しかも国技大相撲と同等以上の伝統と文化、そして世界から畏敬されるブランド力を持つ囲碁を極め、普及・啓蒙する総本山でもある。しかも誠に失礼ながら、やんちゃな朝青龍やどこか幼稚な高砂親方(元大関朝潮)らとはまるで異なる精神構造の持ち主(要するに天才!)ばかりで構成される。こうした前提に立てば、今回の「大竹改革」はオトナから学生組織への「逆行」、それとも個人の好みを押し付ける「愚行」、あるいは「余計なお世話」とか「打ち過ぎ」と見えなくもない。

 この春まで小林副理事長とともに理事を務められた碁界の御意見番、酒井猛九段によると、大竹改革の真意は「棋道回帰」にあるという。囲碁は中国や韓国では「勝負」としての意味合いが強いが、日本ではそれ以上に「棋道」の精神が問われる。先後を決める握りの方法、碁笥の置き方、石の持ち方、打ち方を含めて、数十世紀にわたる伝統に育まれた「形」「所作」がある。そしてプロ棋士の最終目標は「価値ある棋譜を遺すこと」にあるから、例えばダメを詰めて棋譜を汚す中国流の終局方法も採らない。服装、礼儀作法は、それらの大前提になるから、大竹改革はまさに正鵠を射ていると言う。

 また個人的な話に戻ってしまうが、「棋道」について、茶道や華道や宗教に見られるような「形」「所作」を重んじると同時に、それらの根底にある精神、つまり「心の問題」を重視すべきではないか——との疑問は以前に書いた通り。凡庸な門外漢(つまり私)から見れば、服装や罰則に関する規制強化は「棋道への本卦帰り」を促す象徴と言う以上に、棋士や職員の皆さんにもっと一体感や当事者意識を強めるための「具体的な一歩」なのではないかと思いたい。

 棋士と言えばこれまでは一国一城の主としての意識が強いと言われることもあった。また職員の方は日々の業務に追われて黙々と下働きする日陰の存在に甘んじることを強いられていた意味合いもなくはない。いずれにしても、世界に広がる文化の担い手としての日本棋院を構成するスタッフとしての自覚や、改革を進める主体としての使命感を、もう一度原点から確かめる必要がありはしないか。だからこそ、まず服装や罰則強化から着手した大竹改革は「たかが些事」ではないし、もちろん「逆行」「愚行」ではあるまい。

 最後に一点、是非とも付け加えたいことがある。こうした改革をめぐる議論は密室内ではなく、適宜(つまりいろいろな節目ごとに)ガラス張りにして欲しいと言う願いだ。いつの間にか決まって結果のみをさらっと知らせる、それも例えば『週刊碁』で1回限り、というやり方は不十分。雑誌やインターネット、棋院施設内での張り出しなど繰り返し伝えて囲碁愛好者の理解を得る努力が欠かせない。もちろん、議論の細部を何でも開示すればいいというわけではないが、基本は“隠すよりも開示”。「日本棋院は誰のもの」という大きな命題とも絡むポイントだから、理事長・副理事長らのリーダーシップを強く期待したい。

亜Q

(2007.8.17)


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