碁の本質って何だろう

碁とは、最もシンプルで、最も奥が深く、歴史が最も古い知的ゲーム。
シンプルとは、人間が創作した恣意的な要素が極力省かれている美しさ。
恣意的要素とは不自然な初期条件、例えば将棋の駒の能力や配置。
石に性格はない。盤上どこにでも打てる。19路である必然性もない。
この碁を十把一絡げに「ゲーム」と名付けるのは少々抵抗を覚える。
人間が真理に至る道程を競う「技芸」あるいは「文化のツール」――。
硬い表現だが、碁の機微に触れた人ならばきっと賛同してくれるだろう。

「負ければ絶望しかない」(趙治勲)――。もちろん碁は「勝負事」だ。
特にプロ棋士は序列も収入も名声も、手っ取り早く勝負の実績で決まる。
しかし趙は、心の底で「勝負がすべて」とは思っていないのではないか。
「いくら勝っても優越感を持てない相手、その逆のケースもある」と言う。
だからこそ彼は自他の碁を壊し、本番で様々な新手・珍手を試みるのだろう。
勝負は碁の一面に過ぎない。むしろアマが勝負結果に拘り過ぎていないか。

ビジネスの世界なら、自由市場の中で「結果がすべて」と言うも良し。
新技術を開発したA社より、しばしばそれを巧みに商業化したB社が儲かる。
しかし特許権があれば、多くの場合A社に一定の先発利益が還元される。
碁や将棋には特許はない。優れた成果であればあるほど、すぐに真似される。
しかもいくら技芸に秀でていても紙一重の差。勝ち切るのは容易ではない。
それでも、廃れるどころか改良されてますます輝く戦略・戦術は少なくない。
武宮宇宙流、小林流布石、梶原定石、秀行新手…、まだまだあるだろう。

碁は産業でも商売でもない。営利(勝利)を得ればそれでいいとはいえまい。
優れた学術論文のように、最初に発表した人が栄誉を受ける仕組みが必要だ。
即ち、「棋士の成績評価」一辺倒ではなく、「棋譜の技芸評価」を加えるのだ。
アマにとってプロ棋士の勝敗は一時の興味、後世に残る名譜こそ価値がある。
賞金額が大きい棋聖戦の棋譜だからと言ってありがたがるのではなく、
通常の大手合いに珠玉の宝が潜んでいるかもしれない。それを発掘したい。

注;このほか、アマへの普及・指導、弟子の育成を評価する「貢献評価」や、
碁界の活性化につながる組織的活動を評価する「改革評価」も考えられるが、
本稿では焦点がボケるため割愛し、技芸評価の方法例を提案させていただく。

「技芸評価」のイメージは碁界におけるノーベル賞。タイトルと同等に扱う。
これまでも専門誌が画期的な新手を表彰した例はあるが、規模は小さかった。
年1回、自薦・他薦棋譜を評価委員会で審議して大賞、優秀賞などを決める。
「勝者総取り」色は薄めた方がいい。勝負でないから差は緩やかにしたい。

対象は、対局者同士の丁丁発止のやり取りが絶妙な優れた名局(2人受賞)、
棋譜布石構想、定石改良、鬼手・妙手(1人受賞)など部門を分けてもいい。
受賞対象は棋譜だから1人で複数受賞できる。2人の対局者で賞金分割も結構。
門戸は全世界に広げたい。韓国、中国、台湾などからの応募も平等に扱う。
受賞者は獲得金額と棋戦賞金額を加えて、年間最優秀棋士の座を争うのだ。
生涯の獲得タイトルと技芸賞の数と賞金こそが棋士の勲章になるだろう。

棋戦と違って経費は安いし、運営も簡単。どこかスポンサーにならないか。
実施に当たっては、棋譜の選考とランク付けが難しいが、それは枝葉の問題。
仮にベスト50をランク付けして1位500万円、2位490万円…とした場合、
総経費は審査費用を含めても1億5000万〜2億円程度で済む計算である。

広くて深い碁を、勝負の結果と言う一面からのみ評価するのはさびしすぎる。
段位、タイトル戦での実績と並んで技芸も評価されれば、棋士はさらに精進する。
盤外作戦などは影を潜め、碁の質そのものを向上させる機運が盛り上がるだろう。
勝負を超えた質で競う国際間の実力分布も、より明確になるのではないだろうか。

K

(2002.3.6)


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