「劣等感」はかくも美しく昇華する~中山典之棋士の矜持

「仕置き人」、「はぐれ刑事」などのヒットシリーズで知られた名優・藤田まこと氏の訃が大きく報じられたころ、日本棋院棋士・中山典之六段が16日、ひっそりと77歳の生涯を閉じられた。葬儀は近親者で執り行われたらしい。

棋士としての実績より“文士”として名声が高かった囲碁界稀有の貢献者。『実録囲碁講談』(日本経済新聞社)、『碁狂ものがたり』(日本棋院)、『囲碁の世界』(岩波書店)『囲碁の魅力』(三一書房)といった棋書にはまれなベストセラーを連発、さらに碁聖道策、梶原武雄、小林光一、武宮正樹らを冠した講座ものをライターとして多数手掛けられた。欧州を中心に海外普及活動にも尽力され、「青い目の門下生は2000人」と豪語されていた。

昭和7年長野県丸子町で生まれ、同26年高校(旧制)を卒業後「上京して流浪」(本人談)、苦節を経て37年プロ棋士に。プロの囲碁観や感性を持たないまま当時のデッドライン30歳ぎりぎりで滑り込んだ「田舎碁の力自慢」(同)。入門同世代には安倍吉輝(故人)、高木祥一、福井正明といった10歳ほど年少の俊才がずらり。彼らの日ごろの精進ぶりに圧倒され、「生涯にわたって心中劣等感が住み着いた」(同)という。

典之の名をもじって自ら「テンコレ」と軽く称し、凡夫・鈍才の代表格を自認。才能にあふれた周囲の棋士たちには公然と敬意を表していた。事実、同期組は例外なく短期間に九段に駆け上り、ご自身は平成4年に六段に到達したまま後輩たちにも次々に抜かれ去った。このあたりの様子についてはご参考までにこちらをどうぞ(「毒舌今なお意気軒昂~~中山典之六段出版記念会から~~」、「Davidと覗いた『第60期本因坊就位式』風景 その3」「実録囲碁講談」「わが偏見〜“最強プロ” はこの方ではないか ④」)。「劣等感」は私のような凡人には百害あって一利もない。しかし中山棋士は劣等感を珠玉の文章に昇華させた。特に晩年には、日本棋院きってのベストセラーを完本化した『完本・実録囲碁講談』、『昭和囲碁風雲録 上・下』、『囲碁の世界』などを相次いで発行・再刊されるかたわら、『囲碁ワールド』誌に囲碁近代史の証人として連載されるなど、死を予期されたように旺盛な執筆活動を続けられた。

その源泉となったのは、中山棋士が胸中深く秘めていた「矜持」ではないか。この「矜持」を支えたのは、碁を愛する心、どんな棋士でも素晴らしい棋譜や行動には深く敬意を払う精神に加えて、特に文筆に発揮された詩的な感性と美意識――だろう。俳句に才能を見せた父君(号は「蕉堂」、佳句を多く残され、中山棋士は著作にたびたび引用されている)、そして母校である県下屈指の進学校旧制上田高校(旧制)で漢文や大和言葉の美しさを徹底的にたたきこまれた恩師(飯島忠夫講師)らの薫陶を受けた中山棋士の魂は、しばしば盤上を離れ言霊(ことだま)の世界に雄飛したのではないか。

その証が、生涯千首と言われる「いろは歌」の創作。いろは47文字に「ん」を加えた全48字を1度だけ使いながら美しい今様(いまよう、平安時代中期の流行歌)を構成する前代未聞の仕事だ。囲碁に関連させた作品、囲碁から離れた作品の二様あり、しかも書き出しの文字をいろは順に並べるなどまさに縦横無尽。「い・ゐ・ひ」「え・ゑ・へ」「お・を・ほ」といった違いを厳密に書き分けるのはもちろん、「ん」から始まる「吽聲歌(うんせいか)」(ん/と聲(こえ)に出で/はや闕(か)け眼/居眠りすらも/待ったなし/下(おろ)せぬ指へ/うそぶくよ/浅き智を吾/吠えるのみ)まで添えて『圍爐端歌百吟』と題して平成11年に出版された。

当時、国語問題協議会会長を務めていた宇野精一東京大学名誉教授は、「我が国文化の再興の大きな手掛かりになると考えるから慶賀に堪えない」と喜び、中山棋士の文才の第一発見者を自称する『囲碁クラブ』誌の名編集長だった田中宏道氏は「やまと言葉の精華を結集したこの本は百年、二百年、否いろは歌のように千年の後まで伝えられるだろう」と予告している。

本書には、囲碁を題材に96首を掲載しているが、その中から「冥土歌」と題した2首を紹介させていただく(いつもながら、小生の未熟ゆえ旧字体など不完全な部分があります)。

冥土に囲碁の/あるなしを/尋ねておくが/良き智慧ぞ/日も薄れ/はや/夕去りぬ/見(まみ)え論ぜむ/呆け童(ほけわらべ)

冥土の囲碁は/面白や/吾すら無敵/下手さ見ゆ/智慧練る閻魔/髭(ひげ)なぶり/余(よ)に嘘をつく/阿呆(あほ)抜かせ

囲碁の世界から離れて創作された「新いろは歌」には思わずうなりたくなる名作が多い。私の好きな3首。

色は空なり/すべて無為/常に非(あら)ざる/世を侘(わ)びぬ/み佛(ほとけ)まかせ/稚児の夢/重き縁知れ/誰(た)そや酔ふ

我/奥山に・庵(いほ)をあみ/酔ひさすらへば/時超えぬ/現世(うつしよ)の夢/今日(けふ)断ちて/世尊も眠る/ゐろり哉(時空超越歌)

迂(う)人庵(いほ)あみ/日も落ちぬ/手まくら常よ/花に風/聴けやゐろり邊(べ)/夢の聲(こえ)/誰(た)そ故郷(ふるさと)を/忘れ得む(迂人望郷歌)

そして中山棋士は周到に「訣辞(けつじ)」を用意されていた。本ページで以前にも紹介したが、改めて再掲させていただく。

無為の浅智慧(むゐのあさぢえ)/凡夫老ゆ/空音(そらね)幕終え/我消えぬ/せめても名残(なごり)/詠みにける/いろは清(すが)しや 歌つどひ(無為歌)

合掌

亜Q

(2010.2.23)


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