清貧・中野孝次を悼む

 享年79歳。7月16日、入院先の病院で亡くなられたと、22日付夕刊で各紙が訃報を載せていた。「今年2月に食道がんが見つかり、5月に発行した著書のあとがきで自ら公表した」とあるから、ご本人は自らの症状を十分わきまえた上で、最後の著作と「U20中野杯」創設を急がれたのだろう。

 昭和54年、50歳を過ぎて挑戦した処女作「麦熟るる日に」が平林たい子文学賞を受賞した。もちろん私は読んだことはない。東京新聞7月23日付夕刊に寄稿した文芸評論家I氏(同紙の元文化部長)によると、腕の立つ宮大工の息子が、「大工に学問は要らない」と言う父親に逆らって進学を目指すという厳しい状況の中での青春物語。進学ブームに沸く当時の世相とはいかにも対照的だったらしい。

 「私にできたのは、昭和とともに生きた平凡な知識人の自己形成の過程を逐一くそまじめに追うことだけであった」。中野氏は受賞後、東京新聞に寄せた「なぜいまさら小説を」という文章でこんな説明をしたという。

 氏はそれを、「人生に対する中野氏の誠実さ」を表していると指摘して次のように読み解く。「昭和とともに」というのは、もちろん時代と「共寝」したということではない。そうではなくて、反時代的であることによって時代の正統になるという逆説を、中野さんは示したのだ。それはやがて、反核運動やベストセラー「清貧の思想」へと形を変えて広がっていくーーと。

 この中野さんと碁とのつながりを記述した訃報記事は少ない。朝日と読売がそれぞれ、「囲碁好きでも知られた」「文化人囲碁訪中団を組織し、中国のアマと対局した」と一言あるだけ。最も肝心な「U20中野杯創設」という碁界への大きな置き土産については毎日、日経、東京も含めて触れていないのは残念。事業が大当たりした会社がスポンサーになるならわかるが、“清貧の人”が差し出された浄財である。
 決勝に勝ち残った瀬戸大樹五段と大橋拓文三段はひときわ想いを込めて打ってくれるだろう。

 ところで、優勝カップを授与する役回りは誰が受け継ぐのだろうか。加藤理事長か、今井新総裁か。それとも中野氏の身内の人が代わるのだろうか。個人的には、チクン大棋士に引き受けてほしい。

 7、8年ほど前、テレビの番組で中野氏を相手に大三冠を失った心境をポツリポツリ話していた。強がりでもなく衒いでもなく、ごく素直に「自分の碁を再構築する時間を天が与えてくれた」と。

 中野氏は聞き役に徹しておられた。「現世の利得に執着すべからず」といった自説を控え、説教調でなく、ごくごく自然に応対されていた。失意の大棋士が人生の大先輩を前に胸襟を開き、虚心坦懐になっていた姿が今でも胸に残る。 合掌

亜Q

(2004.7.24)


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