続・マネ碁考

プロはマネ碁をするべきではないと思います。
後出しジャンケンのようなズルイ感じがするからです。
黒が悪手を打ったら、そこで白の手を変えようという根性が気に入りません。
もしプロ棋士がみんなマネ碁をやり出したら碁界は衰退するでしょう。
そしてマネ碁をした本人も棋士として失うものが大きいと思います。
プロ棋士がマネ碁をした棋譜の価値は限りなくゼロだと僕は思います。
マネ碁をするというのは、棋士の意地とプライドを捨てることだと思います。
棋士がプライドを捨てたらどんな存在意義があるのかと僕は思いますね。
(以上、「ヨダログ」から抜粋させていただきました)

シューコー、オーメン、ヨダ、サトル――よわよわのザル碁にも、棋譜を見るたびため息が出るほど好きな碁風がある。私的には「芸の四天王」と呼びたい1人、ヨダ元名人がご自身のブログでマネ碁批判の心情を披露されていた。確かに、プロの碁にマネ碁が大流行するようなことになれば、はじめのうちは興味深々でもアマは飽きっぽい。棋譜を見る楽しみは減り、ひいては碁界が衰退するかもしれない。その意味で、元名人の言い分には「まことにごもっとも」と言うほかはない。

でも、ここで“検討”をストップさせては、マネ碁の張本人扱いされた故「H九段(ヨダ元名人の表記のまま)」があまりにもかわいそう。結果的に、「死者に口なし」と斬って捨てることになる。プロ初の九段棋士であり、呉清源、木谷、坂田、シューコーといった昭和の名棋士らとしのぎを削ったH九段はあの世で泣いているのではないか。

この際、フツフツとH九段の弁護をしたくなった。はなはだ頼りないかもしれないけれど、ザル碁アマにも3分の理。H先生、身の程知らずの私を、どうぞあの世からお見守りください。言葉足らずのことが多々あるかと存じますが、その節は夢枕に立ってご教示いただければ幸いです。さらにヨダ先生、私はあなたの大ファンですが、この点については一言申し述べさせていただきたい。私のような凡人と違って既成観念にとらわれず、並外れた直観力をお持ちのヨダ先生なら、きっとご理解いただけると確信しております。

もう30年ほども昔になるだろうか。何かの記事(日経新聞朝刊最終ページの文化欄だったかもしれない)で、ご本人がマネ碁に対する所見を書かれていた。そこでまず注目させられたのは、「H九段は世間の不評を十分すぎるほど知っていた」点。ヨダ元名人が指摘されたマネ碁の欠点を文中でも紹介し、その上で「誰も手を出さない、しかも結論は出ていない。ならば自分が挑戦する」という具合で書き出されていたと思う。

ではなぜマネ碁に挑戦するのか。具体的な表現はすっかり忘れたが、要するに、1.マネした側がいつでもやめられるマネ碁は勝負において本当に有利なのか、2.適正なコミを推測する上で効果的なアプローチになる、3.コミに限らず、「棋理」そのものを究明するにはとても優れた方法ではないか、4.プロ棋士として、この謎に踏み込むのは興味深いし、その義務もあるはず――概ねそんな内容だったと記憶する。

以上が私のうろ覚えの内容。もし神様同士がマネ碁を試みれば、序盤で黒番勝ちが決まるだろう。マネが不可能な場所、つまり天元の特性を利用すれば、神様でなくコンピューターでも簡単に勝ち筋を見出すだろう。これはマネ碁を続ける約束がある場合だが、白番の神様がどこかで手を変えたとしても(それは最善手のはずだから)盤上コミ分だけ黒の勝ちで終わるに違いない。これは当たり前のことを言っているに過ぎないだろうが、人間、特に棋士にとってマネ碁は一度はきちんとクリアしておかなければいけない難問の一つだろう。

折り良く、囲碁界きっての論客・酒井モー先生にお話をうかがう機会があった。酒井九段は若いころ「鬼才」と恐れられ、リーグ戦の常連でもあったから、H九段とも何度か手合わせされたらしい。「幸い僕にはマネ碁を仕掛けてこられなかったけれど、やられたらとても苦しかったろう」というのが第一声。そして結論は、「でもH先生には、相手を困らせて勝とうとか、面白半分でマネ碁を試みられるのではなく、特にコミの適正値を知りたいという真理探究者としての信念で打たれていたと思います」。

マネ碁についてはもう7年も前にここに書かせていただいたことがある(真似碁考)。H九段は現役を引退されても毎日のように日本棋院に顔を出され、一般対局室で若い院生たちを捕まえては早碁を打たれていたという。そして若い後輩たちを湘南の自宅に招き、夫人ともどもバーベキューを振舞っておられたという。使い古しのぼろ雑巾のようになってもなお、碁と後進たちにささげた愛情。やはり私には敬愛すべき棋士の一人だ。

亜Q

(2010.4.6)


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