内蔵助 ある日つくづく嫌(いや)になり

例の公然わいせつ騒動があって、こんな川柳を思い出した。詠み人も詠まれた時代も知らないが、人生の半ばを過ぎた私にもなぜか癒しの気分を分けてくれる名句だと思う。

内蔵助とはもちろん赤穂の大石さん。武士道を貫いた忠臣の鑑として今なおもてはやされる存在。主君浅野内匠頭の無念を晴らすため1年有余を復讐の鬼となってひたすら宿敵吉良上野介を追い続け、ついに本懐を遂げた。でも、ご本人の心の内はどうだったのだろう。茶屋遊びを重ねて世間をあざむきながら苦節の日々を送る中で、ある日つくづく仇打ちなどという封建的な絆が呪わしくなり、いっそこんな憂鬱な志を捨て去りどこか平和な村里にでも隠遁して人間らしく生きようと考えたことがあったのではないか。

でも大石さんには無責任に放り出せないきつい縛りがあった。一つは亡き主君が遺した恨みの歌。「風誘う花よりもなお我はまた名残の春を如何にとやせん」とは、まさに「仇を討ってくれ」との主命に聞こえる。もう一つは自分を信じてつき従う四十七士の存在。もうどうにもならずに、「仇打ち→切腹」への道をひた走ったのかもしれない。

深夜の公園で裸になって大声で叫んだタレントの気持ちを窺うことはできないし、門外漢の私があれこれ言うのは僭越だろう。でも、彼が内蔵助のような気分になったと想像してもあまり違和感がない。例えば亡くなられたシューコー老師のような天下御免の大人(たいじん)ならばせいぜい笑い話程度で事件にはならなかったろうが、まじめな印象が強かったクサナギさんの場合はサプライズが大き過ぎた。

碁界の内蔵助を探すなら、もちろん大竹英雄理事長。名人戦男と言われ、名誉碁聖称号を持つなど碁界を支えたトップ棋士であることは言うだけ野暮だが、内輪の会合などでしばしば嘆息されるらしい。「“大竹美学”などとありがたい讃辞をいただいたお陰で、随分タイトルを逃がした」と(きっと受けるでしょうね)。

この話と裏腹の関係にあるように感じられるのが、昭和の将棋界で活躍された芹沢博文棋士が肝胆照らす仲の直木賞作家、山口瞳さんと飲んだ時の“号泣”。芹沢氏は将棋界随一の才人・粋人と言われ、米長邦雄将棋連盟会長によると「シューコー老師の弟分」的存在だったらしい(米長さんご本人は自らを“甥っ子”的存在と位置づけている)。文章も会話もいつも研ぎ澄まされ、それでいて温かい人柄がうかがわれ、将棋界というより日本を代表する文化人だったようだ。

その芹沢さんがはしご酒の果てに行き着いた場末の屋台で突如「ああ、俺は、名人にはなれないんだな」との想いがこみ上げて山口さんの前で泣き伏した。山口さんの著書「血涙十番勝負」によると、芹沢さんの脳裏には、日ごろ可愛がり鍛えた11歳年下の弟弟子、中原誠16世名人の存在があったらしい(ご承知の通り、中原さんは先ごろ引退された)。プロの将棋棋士は約170人。世界で最も人数が少ない職業の一つと言われ、この50年間で名人に就いたのはたった9人だけ。囲碁の棋聖就位者も少ないが、将棋の名人とは歴史年数において比較にならない。「俺は名人になれない」——口に出すかどうかは別にして、囲碁でも将棋でも大多数の棋士にはそう思い知らされる瞬間があるのかもしれない。

ついでながら“千寿会の芹沢さん”と言えば、もちろんかささぎさんだ。勤務先のマネージャーが変わると研究テーマも見直され、彼の積み重ねてきた貴重な研究成果が今一歩のところでノーベル賞に届かない可能性が出てきたようなのだ。そのせいか、碁に賭ける情熱はいや増すばかり。昨年末にシューコー老師と握手したのが効いたのか、これまで見られなかった飛天の着手が駆け巡り、まさに絶好調。ライバルの私が打てる手は唯一つ。かささぎさんを場末の屋台に誘って飲むしかない。

亜Q

(2009.5.26)


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