呉清源 −極みの棋譜−

 映画、「呉清源 極みの棋譜」を見てきました。
   監督:田壮壮   原作:呉清源著「中の精神」
 呉清源役の張震(zhang zhenチャン・チェン)が若き日の呉清源役にぴったり。日本語が上手すぎたかな。わたしより上手そう。ご存知のように呉清源さんは今でも日本語がたどたどしいところがある。それに比べれば上手すぎる(^。^))。雰囲気が実に呉清源さんらしい配役だった。
 映画はいろんなエピソードを寄せ集めた感じで、なんかまとまりがない。大河ドラマの総集編のような感じだ。あるシーンからいきなり関連のない次のシーンへ飛ぶ。あれはどうなったのと思っているうちに、また関連のないシーンに飛ぶ。
 原作を読んでいないので、意味が判りにくい。呉清源さんの著作「莫愁」はエッセイ集で短いバラバラな話の集まりなのだが、それを映画でやっているような感じだ。

 実は遅れて映画館に入った。ネットで見て、4時40分に始まると思い、4時20分ごろ映画館に着いたが、4時ちょうどの始まりだった。次の回まで待つのも大変なので、入ってしまった。
 ちょうど富士見の療養所のシーン。電気スタンドを点ける。そのスタンドが、昭和五十年代(?)ころの新しいデザイン。丸い台、フレキシブルな細い首、電球を包むような小さな傘、変形した電球。
 戦前の富士見にそんな洒落たデザインの電気スタンドがあったか? それがいきなり目に入ってしまった。
 そして、そこに見舞いに来た川端康成らしき人とススキの原での会話。わたしは観戦記者かと思ったが、どうやら川端康成らしい。
 川端康成には「呉清源棋談」とか「名人」などの著作があり、みずからも碁を打つ。呉清源とも親しい。川端康成らしき人はメモ用紙を持って観戦したりしている。
 千寿会では、ちかちゃんが川端康成に詳しい。実際に対局しているかも知れない。

 日中の狭間で悩む青年像。紅卍会に入り、後に爾光尊に入る宗教人としての呉清源も。
 本因坊秀哉との、天元・星・三三の対角線布石が出て、この時の本因坊秀哉の碁石の置き方(手つき)がおかしかったが、そこで終わり。
 木谷道場では「名人」の当時、つまり秀哉の引退碁の当時、18人の子供を預かって、内弟子としていた。その子供の碁を見ているとき、呉清源が訪ねてくる。呉清源にとって木谷道場は心の安まる所だった。
 木谷との十番碁で、木谷が目の前で倒れたのに、それに気が付かず考え込んでいる集中力は白眉。
 戦中戦後の買い出し、空襲など。
 呉清源はいないが、広島の原爆の下で戦った本因坊戦の話。
 爾光尊で警官を相手に暴れる男は「双葉山」なのかな、それにしては小さい。説明はなかった。バンフレットでは双葉山と書いてあるらしいので、どこかで「双葉山」と説明があったのを見落としたか。
 高川秀格との最後の十番碁は、始めただけで終わり。
 交通事故によって、打てなくなり、と言っても勝率はいいのだが冠に届かず、引退に至るまで。
 等々。

 そこで次の回を待つ。
 始めに呉清源師の現在の元気な姿。
 そして、物語の始まりは、少年の時、外から帰ってきてベッドに入るところ。
 ここでわたしは父親のために碁を並べる姿を期待した。右手で本を持って左手で並べる。疲れると、左手に本を持ち替えて、右手で並べる。こうしていきなりトップクラスの棋譜を並べ続けた少年時代。そのシーンはなかった。なんのために少年時代を撮したのか。
 そして、いきなり日本へ来てしまう。スカウトされるシーンもない。
 短い時間に凝縮するので、そうやって、ワンカットで飛んで行かざるをえないんだろうな。
 それでも呉清源の人柄や生き方が、はっきり表現されていたと思う。
 柄本明が瀬越憲作を好演。
 最後は、
「わたしの人生には真理と囲碁、このふたつしかない」
 現在90歳を越えているのに、碁の研究を続けていらっしゃいます。

参考
神髄は調和にあり −呉清源 碁の宇宙−
莫愁(もしゅう)
名人
呉清源

 なお「莫愁」を読むと、紅卍会は宗教団体ですが性格は赤十字に似ているように思いました。呉清源さんも「欲望に基づいた信仰は迷信である」と明言しています。

謫仙(たくせん)

(2007.11.23)


もどる