日本に根付く世界の人材

 先月の千寿会に久しぶりにバリー君(右)が顔を出した。20世紀末に故国ルーマニアから来日して同僚のドラゴーシュ君らと院生修行したがプロ入りはかなわず、21世紀に入って大阪外国語大学で1年間日本語を習得後、通信工学では日本(あるいは世界)で最高の実績を誇る東北大学で学んで卒業後の今は日本でケータイ関連の技術開発に従事している(このあたりの経緯と写真は本サイトの「棋士の卵たち」をご覧ください)。

 早速お手合わせを願うと、私と実にいい勝負。時間の関係でヨセに入った終盤で打ち掛けになったが、千寿会講師の健二さんの形勢判断では「すごく細かい」。ほんの5、6年程前には石を置いてもまるで勝てる気がしなかった(バリー君のよきライバルだったベンヤミン君に挑戦した「真似碁考」でこのあたりの雰囲気に触れているので、よろしければご覧ください)から、私はずいぶん強くなったのだろうか。ところが後で聞くと、バリー君はこの数年間学業と仕事一筋でほとんど石を握っていなかったらしい。碁の感覚が戻らないまま、私の前に打ったかささぎさんにも負けたという。自分が強くなったのではなく相手が弱くなったのでは、ちょっとがっくりだ。

 しかしよく考えてみると、これは素晴らしいことではないか。日本とは何の縁もゆかりもない欧州の青年が現地で普及活動を続けるチーママに出会って日本で棋士修行を始め、プロへの道を断念した後も日本の最高学府を卒業して定職を得る。少子高齢化が進む日本、そして経済大国ではない彼の故国との共存共栄、さらにグローバル化が進む人類全体にとっても望ましい未来を示す好例かもしれない。バリー君は今27歳、独身。日本語ペラペラのなかなかの男前。できれば日本で嫁さんをもらって末永く活躍してほしい。

 絶妙なタイミングで、『ダイヤモンド』誌最新号が「ガイジン様大争奪戦」という特集を組んでいた。これからの日本は外国から人材を招き、地球的レベルで国際貢献していくことが成長・発展の鍵を握る。そして今、いわゆる単純労働の担い手としてのみではなく、「高度人材」をいかに確保するかが勝負になってきたという趣旨で、日本の「ガイジン市場」を次のようにまとめている。

 まず、日本を訪れる外国人旅行者は2007年現在835万人(うち観光客は595万人)。訪日目的は①ショッピング②伝統文化・歴史的施設③温泉・リラックスの順で、直接の消費額は1.7兆円、経済効果は生産波及効果が4.1兆円、付加価値効果が2.1兆円、雇用効果は32.5万人に上る。政府は今後、「ビジット・ジャパン・キャンペーン」を展開して2010年の外国人旅行者を1000万人に増やす計画。達成すれば直接消費額2.5兆円、生産波及効果を含む経済効果は5.8兆円に達するという。

 一方、外国人留学生は2007年5月時点で11.8万人。中国人が60%、韓国人が15%と圧倒的にアジア出身者が多く、学生数はここ数年頭打ち傾向にある。受け入れ留学生数は早稲田や立命館のように2桁の伸びを見せるところもあるが、全体の受け入れ率は3.3%に過ぎず、英国24.9%、フランス11.9%、米国5.5%に比べて著しく低い。このため政府は「留学生30万人計画」を打ち出し、経済財政諮問会議で具体策を練っているという。

 外国人労働者は10年で倍増し、2007年度には75.5万人になった。活動分野を見ると、専門的・技術分野が18万人、身分に基づく在留(日系人などの定住者、永住者、日本人の配偶者など)が37万人、資格外活動(留学生のアルバイトなど)が11万人、特定活動(技能実習、ワーキングホリデーなど)が9.5万人。特に注目されるのは、技術・技能、人文知識・国際業務、研究・教育、医療・法律・会計などの在留資格を持つ「高度人材」。国内で就職した外国人留学生がその代表例だが、2006年度時点では全卒業者3万2099人中、9411人で3割に満たない。国内労働市場での高度人材に占める外国人比率を先進国間で比べると、米国6.0%、フランス4.8%、英国4.5%、ドイツ4.0%に比べ、日本はわずか0.7%に過ぎない。このため諮問会議では、2015年に現在の倍に当たる30万人にしようと提案しているという。

 関連して、5月26日付日本経済新聞『インタビュー/領空侵犯』コラムに「海外に移民学校をつくれ」というR.フェルドマン氏(野村総合研究所、日本銀行を経て、現在モルガン・スタンレー証券経済調査部長、「日本の衰弱」「日本の再起」などの著書がある)の主張が掲載されていた。日本が出資して、日本に必要な人材を海外で教育してもらう仕組みで、「70〜80年代に日本企業が大勢の社員を海外のビジネススクールに送り
込み、日本に必要なスキルを学ばせた発想と同じ」と説いて以下のように論を展開する。

 「日本経済の最大の問題は生産性の低さであり、移民は解決策ではなく脇役でしかない。しかし少子高齢化で、農業や介護など労働集約的な分野では海外の労働力が不可欠。私が生まれ育った米国では、移民が国の活力源になっている。米大統領候補のオバマさんの父親はケニヤ人だし、野球のメジャーリーグも移民の力が大いに貢献している。日本のプロ野球にも王貞治さんというお手本がある。外国人にも日本人として活躍してもらえばいい」。

 「重要なのは官庁間の協力と政治のリーダーシップ。役人は『しない』理由を見つけるのが得意だから、政治が『やれ』と指示する。その政治に圧力をかけるのが国民。移民学校の実現には国民的な議論を盛り上げる必要がある」——。

 フェルドマン氏が着目するのは『ダイヤモンド』誌と違って労働集約的な分野が中心のようだが、移民学校のカリキュラムには実用的な技術・技能、知識だけでなく、日本語はもちろん、日本を理解するための文化、教養に関する内容が当然必要になるだろう。是非とも「碁」を入れてほしい。碁はすぐれて“日本的なもの”だけれど、ほかの日本的なものに比べて珍しく“普遍性”がずば抜けて高い。文学・詩歌はもちろん、音楽や美術などの芸術分野、相撲や柔道のようなスポーツ分野を理解し、高めていくには日本に固有の教養・基礎知識、価値観・感性を必要とするけれど、碁はごく単純で美しい公理から出発する数学みたいなもので、日本を知らないどこの誰であっても有無を言わせず理解(ひれ伏せ)し得るものだから。

 これまでにも何度も書いてきたが、碁を海外に広めた結果として、日本の棋士が海外勢に打ち負かされたり、日本の市場をガラガラに荒らされたりすることを怖れるといった“小局”に目を向けるのは情けない。10数世紀にわたって碁を育て、発展させてきた日本に誇りをもって世界に普及させることが、社会とか文化の領域だけでなくこれからの日本経済を支えていく面からも“大局”だと思う。外国人が日本に帰化したり、定住したりすることはそれほど重要ではない。故国や別の第三国に住んで日本での経験を活かしてもらえれば十分。グローバルな時代なのだから。

 考えてみれば、5、6世紀の頃の帰化人や仏教伝来者、16世紀ごろからの宣教師や医師、技術者たち、さらに小泉八雲やドナルド・キーンらの文学者・研究者らにはどれだけ敬意を払っても払い過ぎることはない。世界の中でも日本語は特に難しいと私は思っているから、日本語(それも難しい漢字や古文、方言なども!)をこなせるだけでもすごいのだが、言葉によるコミュニケーションを通じて極東の小国・日本に溶け込み、民衆に大きな影響を与えた仕事と人生を思うとため息が出てくる。人間とは本当に素晴らしい。もちろん、野口英世のように日本から海外に出て活躍された日本人もいる。日本にも海外にも素晴らしい人がたくさんいるのだ。

 それにつけても、チーママが育て日本のプロ棋士として花を咲かせたハンス・ピーチの不慮の死はかえすがえすも残念だ。碁にも関心があったらしいチェスの世界チャンピオン、ボビー・フィッシャーも日本での活躍の道を閉ざされてアイスランドで亡くなったという。幸い、チェコのオンドラ君や、ハンガリーのディエナさん(このページ下の方にある「国際棋戦に〜」をご覧ください)は日本での勉強を活かして故国やロシアで活躍されているという。バリー君も含めて、ハンスやボビーの無念を少しでも晴らすべく、それぞれの道と場で力を尽くしてほしい。

亜Q

(2008.6.1)


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