湘南ひらつか囲碁まつりから〜囲碁文化史の語り部

 大会では金沢真初段が山下敬吾棋聖・王座や梅沢由香里女流棋聖とともに花束を受けた。昭和の大棋士・木谷実さんが道場を開いた平塚から生まれた初のプロ棋士として、街を挙げてずっしりと期待を集めている。童顔ではないが頬にはまだにきび跡が残る15歳。チアキ嬢に負けた碁を私に聞かれて、悪びれもせず照れ笑いもせず率直に悔しさを表情に表した。こういう少年はきっと強くなる。ひょっとすると、全国レベルのアマ強豪として鳴らした金沢兄弟のお身内なのだろうか。これからどんな花を咲かせてくれるだろう。

 ところでカナザワと言えばこの人、金澤秀男七段にも声をかけた。私の数少ない欠点の一つは、出会った当人ではなく、第三者の話題を振ってしまうところ。実はレドモンド九段や黄孟正九段にも当人ではなく、レドモンド九段の身内の牛力力さん(ニュー・リーリーさん、中国出身のプロ棋士で呉清源老師のお世話役も務められている)とフェイフェイさん姉妹や、黄九段のお弟子さんのシェー・イーミンさんの話ばかりした。秀男七段にはやはり新婚の妻ヤッシー(もちろん矢代久美子五段)の話題。私はヤッシーについての乏しい知識を目一杯かき集めてやんわりと新夫に切り込んだ。

 私:プロポーズされた場所はどちらでしたか。まさか横浜郊外の金沢八景ではなかったでせうね?
 秀男七段:えっと、そう言えばそうだったかなぁ(たちまちアセアセの表情)
 私:場所を選んだのはどなたでしたか?
 秀男七段:えっと、私は相手に逆らわないタイプでして……

 案の定、そうだった。些細なことに見えるこの事実から、私はヤッシーの深謀遠慮に満ちた気高い戦略を感じ取り、思わず「ヤッシーは偉い!」と叫んだ。もちろん秀男七段にその根拠を説明する。「25歳になった途端に“四捨五入すればもう30歳”(『週刊碁』に連載されたコラム「ナチュラル通信」で本人が吐露した当時の心境)と焦り出し、周到な計画(“策戦”というべきかも知れない)を積み上げて、見事三十路(みそぢ)直前に女流本因坊と素晴らしい夫をゲットした。背丈はノッポのヤッシーよりさらに高く、歳も7ヶ月ほど上。ヤッシーは先を読む賢い計画性、強靭な実行力、絶妙なバランス感覚を兼ね備えた現代のスーパーウーマンだ」と新妻を褒め上げる。

 秀男七段はニコニコと聞き流しながら、肯定も否定もせず微妙にずらした回答を返した。「あれで結構ノーテンキなんです(そうでしょうとも。「あれで結構〜」と言われても、私には全然意外でも何でもありません)。先日シェー・イーミンさんとの女流本因坊タイトル戦第2局では致命的なポカをやらかして大逆転を食らいましたが、“全く気がつかなかったのだから仕方がない”とさばさばしていました」と、そんな彼女のことを心からいとしむ様子がありあり。その後18日に行われた第3局でヤッシーは女流本因坊の座を明け渡すことになるが、それより何より、二人は良き夫婦(めおと)として末永く添い遂げることだろう。人間観察の達人たる私はそう確信した。

 嬉しかった出会いも披露させてほしい。もう10数年にもなる昔のほんの些細な触れ合いを忘れないでいただいたプロ棋士がおられたのだ。大垣雄作九段は、私に5子置かせてボコボコにし、もしかするとややマゾっ気があるかもしれない私に碁の素晴らしさを教えてくれた勤務先の同僚(大垣九段とは2子で“アマが勝てば指導料金無料”の碁を打っていた)が早世したのを悔やんでくれただけでなく、大垣九段の師匠である榊原章二教室に当時ちょっと顔を出していた私のことも覚えていてくれた。大木啓司七段も今よりさらにヨワヨワだった頃にご指導いただいた私の顔を見て「当時の面影がある」と思い出してくれた。棋士はたくさんのアマ棋客といつも接している。しかも私はその中で最も大勢を占める“どこにでもいるオジサン”。もちろん、体型も髪型も大きく(マイナスに)変わった。ハテ、私の顔は年老いても印象に残るほどの二枚目だったろうか!?思わず知らず私はいつものノーテンキな妄想にとらわれ、しばし幸福感に包まれた。ま、いずれにしてもこの世は捨てたものではない。

 大会のまとめ役を務められたのは石田芳夫九段。若くして碁界の頂点、名人・本因坊に上り詰め、コンピューターともてはやされ、棋士会長なども務め上げられた重鎮に、またまた私は不躾なことを聞いてしまった。「木谷門下のイベントに総帥の大竹英雄名誉碁聖が見えてないのはさびしいですね」。そう言えば、チクン・コーイチの両大棋士もおられないではないか。「武宮・梅沢両先生の力を借りてもこれだけの規模になると何かと大変でしょう?」と下世話な話題をもちかけると、さすがは24世名誉本因坊。品性に劣る私が密かに期待した愚痴もこぼさず、「大竹先生は何よりもこの大会を大切にされている。今回はよんどころのない事情があったのでしょう」ときれいに切り返された。

 そしてお開き直前に出会ったのが、“囲碁史の語り部”水口藤雄さん。1954年つまり昭和29年から38年間にわたって日本棋院に奉職され、定年退職後の98年には「津久井囲碁資料館」を開設、その後神奈川県三浦半島の三浦マホロバ・マインズで囲碁ミュージアム館長などに携われた。その間、李朝時代の開明派として知られる政治家、金玉均が愛用したと言われる碁盤を発掘して韓国棋院から表彰されたり、八重洲囲碁センターで「徳川家康の囲碁戦略」を講演したり、一貫して囲碁文化史を研究・啓発されてきた。

 この水口さんが研究成果を集大成して著された渾身の力作が「起源伝説からヒカルの碁まで」と副題に添えた『囲碁の文化誌』(日本棋院が2001年に発行した「碁スーパーブック9」)。古代中国の堯帝(ぎょうてい)が仙人から伝授され、天文・易を研究する道具として珍重したという「中国発祥説」を手始めに、三国志や万葉集、さらに菅原道真や紫式部、清少納言、信長、秀吉、家康などの関わりを丹念に調べ尽くし、4000年にもわたって紡ぎ上げてきた囲碁文化を謳い上げた労作。まだ読まれていない方は是非一度目を通されてはいかがだろう。

 水口さんは今、NPO法人「囲碁ルネサンス」を主宰されて普及活動に取り組まれる一方、平塚市に「木谷実記念館」を開設すべく尽力されている。しかしこの壮挙はあまり捗ってはいないらしい。日本棋院自体が内部改革に忙殺されているし、趣旨は理解されても腹の太いスポンサーはなかなか現れないようだ。それどころか、三浦の囲碁ミュージアムが閉鎖されるなどして、膨大な数に上る貴重な資料がダンボールに詰めたまま、まさにお蔵入りされて水口さん自身も紐解くことができないありさまだという。やはり私は、囲碁を国技に制定し、世界に誇る日本の財産である囲碁を国ぐるみで大切にしていくことが必要だと思う。この点で、水口さんともすっかり意気投合した。5
年ほど前、本サイトで私は「国技・碁を待望する」という雑文を書いたが、その気持ちは今も変わらない。よろしければどうぞ目を通してください。

 なお、この駄文にもったいないほどのきれいな写真を添えていただいたのは、本サイトの管理人であり、千寿会の碁友でもある「かささぎ」さん(時折、ハッピーマンデー教室の若きゲージツ家・メイ嬢たちの作品も使わせていただいています)。実は今回に限らず、「かささぎ」さんには写真をはじめ碁盤やイラストなども内容に合わせて適宜あしらっていただいてまいりました。この場をお借りして皆様にご報告するとともに、「かささぎ」さんたちのご厚意に感謝いたします。

 もう一つ、2年前に書いた本サイト雑記帳「ずっこけインタビューその2」(2005年10月13日付)は肝心の棋士の名前などに間違いがあったため、まことに遅ればせながらこの機会に修正いたしました。ご迷惑をおかけした向井こずえ・ちあき姉妹および読んでいただいた皆様にお詫びいたします。

亜Q

(2007.10.23)


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