博士の愛した数式

「博士の愛した数式」(小川洋子著)というベストセラー小説が映画化されてまた話題になっているらしい。「鉄人ママ」さんと言われる方が感動されたシーンを自身のブログで次のように記されているので、部分的に引用させていただく。子供に無償の愛を注ぎ込む博士が家政婦の息子のルートに数学を教える情景描写だ。

1〜10を足して55になるという問題に対して、答えをだせばいいじゃん、答えがあってればいいじゃんというルートに対して、
「君がどういうやり方で正解を導いたのか、説明してもらえないだろうか」

「正解さえ出せば宿題は終わり、というものではない。55へ到着する、もう一つ別の道順があるんだぞ。そこを通ってみたいと思わないかい?」

「おやおや、どうした。そんなに弱虫だとは知らなかったぞ。挑戦する前にもう降参するのかい?」

そして「鉄人ママ」さんは「こんな数学なら意味ありますよね。人にものを教える理想像だと思いました」と結んでおられる。

そう言えば、「祖国は国語」などの著書で国語教育振興を叫ぶ数学者の藤原正彦さんは、なかなか解けない難問を考えたり、“美しい問題”を発見したりする時が数学者にとって至福の時だと、どこかに書かれていた。この楽しさを子供に教えたいという気持ちはきっと博士と同じなのだろう。

そんな感傷を味わいながら、入試センター試験が行われた大雪の日、18歳だった頃に通った予備校を思い出した。自転車で通った高校とは違って初めての電車通学。成績順にクラス分けされた教室に知り合いは誰もいない。最初の授業が始まる前、ふと机を見るとボールペンで書き込まれた英文。エルビス・プレスリーの「A fool such as I 」だった。幸運にも私は、その時から予備校が好きになった。タバコを吸い始めたり、わけもなく音楽喫茶に入り浸ったり、初めてパチンコ屋にも入った。

授業で印象に残っているのは、立派なヒゲをたくわえているのに頭髪がまるでないため“ニゲ”と呼ばれていた漢文の先生と、東大で物理を教えていた、確か津野田という名前の先生の数学。津野田先生は授業中に、「人生で今ほど目標が明確な時はない、これは幸せなことだ」とか、「世俗を離れて、例えばタバコの煙の輪がどのように変化していくのかといったことを考えるのは美しいことだ」などとよく話しておられた。人一倍純情だった(つまり青臭かった)私はこんな津野田先生にとても共感した(嗚呼、然るに私は大学で“阿佐田哲也=色川武大”の世界にのめり込み、今日の私を形成した——しかしそんなことはどうでも良かった)。

思えば数学や物理は将棋と囲碁に似ている。脳細胞や美意識を刺激することは確かだと思うが、基礎理論だけではあまり生産的ではない。何の役に立つのかわからないことも少なくない。でも金儲けや「何か得すること」に頭を使うよりははるかに敬意を感じる。

ところで今年の直木賞は東野 圭吾さんの「容疑者Xの献身」に決まったそうだ。紹介サイトをのぞくと、こんな風に記されている。

数学だけが生きがいの男、石神。天才数学者でありながらさえない高校教師に甘んじる彼は、愛した女を守るためその頭脳を駆使し完全犯罪を目論む…。それに立ちはだかるのが同じ大学出身の天才物理学者湯川。互いの才能を認め合う天才同士の対決の行方は——。

天才同士が対決するなら、数学者→将棋棋士、物理学者→囲碁棋士にして欲しかった。映画の名監督に実はなりたかった私が配役を考えてみよう(敬称略)。将棋棋士には升田幸三か村山聖と言いたいところだがもうお亡くなりになられている。いかにも天才という感じなら、やはり羽生善治王将か佐藤康光棋聖。男前なら森下卓、郷田真隆、真部一雄、クセの強いところでは米長邦生、田中寅彦。三枚目風に演じるなら神崎・先崎コンビ。

囲碁棋士はもっと多士済々。ホームズをイメージした英国風ならウックン、羽根棋聖。フランス映画スタイルならケーゴ、セーケン。もっさりあるいは三枚目ムードなら依田碁聖、高尾本因坊、オーメン、山城宏、下島ヨーヘー、金スジュン。エルキュール・ポアロみたいに頭髪とヒゲを売り物にするなら、武宮正樹、結城聡、治勲十段、片岡聡。渋い性格俳優なら覚さんや彦坂直人も味わい深い(もっとも結城聡は三島由紀夫、水上勉、高村薫あたりが描いた悩み多き若き僧侶役がぴったりだ)。

意表をついて少女探偵という手もある。通常の配役なら万波カナ、井澤アキノ、中島エミコあたりに決まるが、三枚目タッチの方が面白そう。となればやはりツクンコかヒョンジョン、いや、ミソヂ直前の“若造りヤッシー”が大本命かも。元美人のオバチャマたちもマープルおばさんのように活躍していただく手もあるが、この際脇に回っていただこう。

やっぱり犯罪者は将棋、名探偵は碁。この逆はあまりピンと来ない。将棋党の方、これで何か問題はありますか?

亜Q

(2006.1.23)


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