我が妄想〜チクン大棋士考・その3 「四面楚歌」

チクン大棋士がタイトル戦の常連だった頃、「モリタ最強説」が流布されたことがある。当時のチクン大棋士は負ければニュースになる無敵の存在。それを見るからに気が弱そうな(失礼!)森田道博(現九段)と名乗る実績のない後輩が2、3回連続して破ったのを見て周囲の棋士か新聞記者が言い出したようだ。

当時は来日初めて胸を借りた林をはじめ、坂田・シューコーといった大先輩、木谷道場でさんざ“可愛がってもらった”にっくき兄弟子、大竹、加藤、石田、武宮ら、さらに生涯の好敵手小林光一をも本因坊タイトル戦で3年連続撃破するなどまさに無人の野を行くが如し。3連敗4連勝の離れ業も見せ付けてくれた(ただし、その逆もあったようだが)。

「東京・四ツ谷に移転していた木谷道場が再び平塚に戻る頃、兄弟子の先輩たちがほとんど独立して、道場には僕を含めて若手だけが残りました。後輩の面倒を見る立場になってこの兄弟子稼業が僕の人間形成にすごく役立ちました」、「この3年間に急激に強くなりました。当時はチクリンや三羽烏(加藤・石田・武宮)を追いかける立場だったから気楽でした」、「26歳で棋聖、名人、本因坊の大三冠を獲得、私生活でも子供が生まれて精神的な安らぎを得ていいことばかりが続きました」。

日経コラムによると、チクン大棋士は順風満帆だった当時をこんな風に振り返っている。しかしひねくれ者の私は必ずしもそうではないのではないかと疑いたくなる。彼の全盛期から少し時日を経た頃、今から10年近く前だろうか、どこかの席上で三大棋戦の一つを主催する某紙の観戦記者から「チクンさんのタイトル戦の運営には随分気を使いました」と聞いたことがあるからだ。「何しろ、受け入れ先の地元の日本棋院支部関係者、囲碁ファンはもちろん、舞台となる旅館の女将、仲居さんに至るまですべてアンチ・チクン、すなわち対局相手を応援していたのだから」と記者は私に打ち明けてくれた。

そう言えば私も、今ほど熱中はしていなかったがタイトル戦になれば必ず日本人棋士を応援していた。まして碁にあまり関心のない旅館関係者は一様に日本人びいきだった可能性が高い。具体的なサービスに差が付くことはなくても、ちょっとした笑顔や仕草が神経を研ぎ澄ませている対局者に影響を与えることが全くなかったとは思えない。今日では消滅したと思うが、韓国や中国などのアジア出身者に対して昔の日本人には多少の差別意識が確かにあった。チクンさんはもちろん、知らん顔をしていてもそれらを肌身に感じていただろう。これでは“順風満帆”どころか“四面楚歌”ではないか。

意味深長なのは、コラムの中で「木谷道場では、兄弟子を含め周囲が自然に接してくれたため、韓国出身で挫折感を覚えるようなことは一切ありませんでした。だが50歳間近になって望郷への想いを少し感じています。李昌鎬さんやセドルさんといった韓国の棋士はちゃんとあいさつしてくれるし、彼らが頑張ってくれると僕もうれしい」と述べているくだり。私がいつもの高潔な人格を振り捨てて無理やり低俗な解釈を施せばこうなる——。

● 「木谷道場内では」挫折は覚えなかったが、その他の時・所ではしばしば挫折を覚えた。
● 「李昌鎬さんやセドルさん“は”」ちゃんとあいさつしてくれるが、その他の棋士は私を無視したり失礼な態度をとることがあった(すなわち、韓国内でも微妙に浮いた存在だった)。

コラムの最終回は次のように締めくくる。「僕自身はこれから先もずっと日本にいると思います。子供二人は日本国籍だし、(僕も)帰化してもいいのかもしれないが、“帰化”という言葉が嫌いです。グリーンカードの取得といったような積極的なイメージを持つ言葉はないでしょうか」。——この部分をどう解釈したらいいのだろう。身の処し方を「言葉の問題」にさらっとかわしている。怪人二十面相の私はやはりこう言いたくなる。「これではさっぱり読めないよ、アケ・チクン!」

亜Q

(2006.6.13)


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