古く良き時代の日中文人の囲碁交流

たくせんさんが「石音掲示板」で紹介されたように、千寿会最長老の“ちかちゃん”こと濱野彰親画伯(こちらこちら)が「第34回東京展(イラスト部門)」(東京・上野の都立美術館、10月3日まで)に新作3点を出展された。「生まれ来るもの」「うごめき」「はばたき」をタイトルとする三部作。何かが何か得体の知れないものからもやもやと湧き上がってくるような瞬間を画伯独特のタッチで捉えた不思議な絵。「人や物や風景は書き尽くしたから、人間の心象を描いてみたかった」とちかちゃんは説明してくれた。

昭和元年生まれの画伯はとうに傘寿を超えた。歌がうまく魅力的な20歳も歳下の愛妻とお二人で、碁を中心とする悠々自適の生活を楽しまれているとばかり思っていたのに、いつの間にか新しい作品に挑戦されている。年齢を超越して創作を続けられる芸術家とは、もちろん苦労は並大抵ではないだろうが、やはりすばらしい。呉清源、藤沢秀行といった老師をみれば、棋士も芸術家に限りなく近い存在かもしれない。

そんな折、ちかちゃんから23年前の新聞記事のコピーをいただいた。昭和60年10月13日付の日本経済新聞朝刊文化面、“日中文人の囲碁交流”と題されたエッセイ。そして書き手はご存知、清貧・中野孝次氏。碁の振興に力を入れ始めた中国が日本との囲碁交流をアマチュアのレベルまで広げた記念になる動きだから、そのエッセンスを紹介させていただこう。(以下、記事のつまみ食い)

左から中野孝次、井上光晴、白川正芳、江崎誠致、濱野彰親、週刊ポスト斉藤の各氏

「北京に“首都文芸界囲棋聯誼会”ができた。日本から文士が出かけて対局してみないか」と日中文化交流協会から声をかけられ、9月20日から9日間、北京と上海に乗り込んだ。当方の代表は文壇名人戦仲間の江崎誠致、真継伸彦、白川正芳(以上三強)と、私、濱野彰親、井上光晴の6名に、技術顧問として小林千寿五段、関係者3名の計10人。

対局初日は北京の首都劇場。聶衛平、馬暁春、劉小光、江鋳久、孔祥明、何暁任、といった中国碁界の一流プロが指導と観戦に立ち会い、会場には150人ほどの観衆が集まった。戦績は1勝5敗と惨敗。中国の碁はレベルが高く、勝負にかける熱意に敬服した。二日目は当方が盛り返して5勝1敗。予定対局者2名が変わったから、先方が手心を加えたのかもしれない。

三日目は、「中国は礼の国だからきっと3勝3敗に組んであるよ」と冗談を言っていたら本当にその通りの形勢になった。しかし30目も勝ちそうだった濱野が敵の粘りに負けて、結局2勝4敗。三日目の午後には、江崎誠致と先方代表・葛康同氏(日中合作映画「未完の対局」の中国側監督)との公開対局(華以剛八段の解説、人気漫才師が聞き手)が行われ、観戦有料にもかかわらず150人もの観衆を集めた。

引き続き上海で行われた二日間の対局を含めて、日本側の総成績は13勝17敗。江崎と私は4勝1敗、井上光晴は全敗だった。上海の夕刊が「名人江崎誠致、文章棋芸均律」と称え、上海チーム会長呉強さんと私との熱戦を紹介した後、井上光晴を「日本作家代表中最活発の人。碁はだめだが酒は九段、北京での宴会では26杯も茅台を飲んだ」と面白おかしく報道した。井上はみごとな飲みっぷりをみせ、踊りかつ歌い、酒に強い中国側を喜ばせた。

日本チームは江崎、真継、白川の三強に次いで、私が四段、濱野が三段、井上が二段を日本棋院からもらっている。しかし日本の段位は甘いため、中国側はあらかじめ内部で試合を行い、独自の(つまり平均より甘い)段位をつけ、逆に当方は一段ずつ落として対局したが、それでも辛いぐらいだった。ところが井上は、小林五段に先番逆コミ90目で挑戦したのだからいい度胸である。むろんお話にもならぬ大敗だったが。

それにつけても、北京、上海に囲棋聯誼会が生まれ、日中のアマ同士が囲碁交流できるようになったのは、中国の社会にそれだけ余裕ができた証拠。これからもっと発展させたいが、問題は資金。今回は小学館が全額提供してくれたが、人と人との職業国境を越えた友好を広げていくためには、経済大国日本たる度量を見せて欲しい。(以上でつまみ食い終了)

この文章が書かれた1985年は、中国の文化大革命が終焉して15年目、日中の国交が正常化されてから13年目、昭和天皇崩御と天安門事件は4年先のことだから、両国とも政情は比較的安定して、互いの友好関係を広げていく古く良き時代だった。経済発展を遂げた日本への中国の好意や、さすがに大人(たいじん)の国、礼の国と敬服したくなる対応がうかがわれる。ほんの(“はるか”と言うべきかもしれないが)23年前のことだ。

上海の対局ではせいぜい10歳ほどの天才少年たちが見学に訪れ、「ちらちら私たちの対局を覗いていくのがこそばゆくてならなかった」と中野氏は書いている。日本棋院の孔令文六段(両親は聶衛平さんと孔祥明さん)は4歳ぐらいだし、古力、孔傑らのホープはまだ2〜3歳だったはず。もしかすると、常昊、周鶴洋、羅洗河といった76〜77年生まれの天才たちが中野氏やちかちゃんたちの碁を見ていたのかもしれない。

中野氏は晩年、自らの死期を悟ったように最終作品の執筆と新鋭棋士のための「U20中野杯」の創設を急がれた。「碁というものはいいものだ。盤と石さえあれば、言葉は通じなくても会話ができる。平気で何でも言える」と中野氏は本エッセイを結んでおられるが、氏の尊い志を汲んで私も精進せねばと思ったりする。ひたぶるに、熟年オジサンの秋の感傷だろうか。

亜Q

(2008.9.30)


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