あまりにも奇特な囲碁人生~その2

「その1」で紹介させていただいた瀬戸さんの人となりをしのばせる「北海道人~私のお父さん」というHPを見つけた。札幌市で広告会社を営まれるご子息が、「朝4時ごろからバシッ石を打つ音が聞こえた。ただならぬ雰囲気だった」と父親の陽三郎さんの精進ぶりを書かれているので、ご参考までに。

もう一人の“奇特な御仁”は、81歳になった春に小田原城のある小田原市・城山を終の棲家と定め、90代半ばまで長寿を全うされた桑原登氏。「寛永の三奇人」と言われた林子平を崇拝されていたらしいが、「版木もない、金もない、死にたくもない」との子平の言葉通りでは生き甲斐がないと思い立ち、84歳で「城山の四季」という随筆集を出版されて囲碁友達、心ある人々、身内関係者らに贈った。

その中で桑原さんは「私と碁」について1章を割かれている。時は昭和12年夏、北京の盧溝橋爆破を発端に日支事変が勃発。当時27歳だった桑原さんは軍歌「麦と兵隊」で知られる徐州へ応召する。蒋介石率いる国民軍との最大の決戦を目前にしたころ、500名以上の隊員の中から「酒保(酒や食料の調達)要員」が選抜される機会があり、ただ1名、桑原さんが選ばれた。理由は碁にあった。

面接には当時60歳前後だった司令官(江橋大佐)自ら当たり、多数の候補者一人ひとりに身分、学歴、算盤、書き方、そして趣味を尋ねた。桑原さんの趣味が碁だと知ると棋力を問い、「3級ぐらい」との答を聞くと「司令官はにやりと笑った」と随筆に書いてある。桑原さんは即日連帯本部付となり、将校仲間で初段で打っていた大佐としばしば碁を打ち交わした。二人はいい勝負だったらしい。大佐と上等兵。階級差は大きかったけれど、手談を通じて食事を共にしたり互いの身の上話が弾むこともあったという。

その後、桑原さんは中国を縦貫してビルマ、タイへと転戦、復員後も仕事で日本各地を回る中で、共に金婚式を祝った愛妻と死別する。そして何と、桑原さんの「囲碁人生」が本格的に始まるのは、小田原城址公園に近い城山風致区に居を定めた80代からだ!「自分は海中のプランクトンみたいな存在。強いものの餌食になる運命かもしれないが、どんな小さいことでも、世のため人のため、喜んでもらえるようなことを実践したい」と志を立てて小田原市内にできたばかりの囲碁サロン「蘭干」の客員となる。

『週刊碁』に連載されている漫画「すごもりくん」には、50年間初段で碁を楽しむおじさんが登場して彩を添えている。実は桑原さんも同じ。27歳で初段免状を受けてから半世紀以上にわたる“万年初段”。「ガツガツしないで春風のようにさわやかに打つ」をモットーに、死の直前まで初心者・初級者にボランティアで碁を教えてこられた。桑原さんの薫陶を受けた弟子筋は5歳の子供から60代、70代の高齢者まで多数に上る。「初心者お断り」を掲げる碁会所が多かった中で、誰でも入りやすい囲碁サロン「蘭干」はとても好評だったようだ。五十路に入って碁を始めた私(亜Q)の実姉も弟子の一人だった

碁を打つ楽しみは、一つは「ある日突然、目からうろこが取れる気分」を実感できること。そしてもう一つは知らぬ同士でも1局終われば10年の知己にもなれるところにあるのではないか。これは初心者・初級者を含むアマチュアはもちろん、トッププロでも同じだという気がする。ましてアマチュアにとっては勝負は二の次、三の次。素直な心と相手を敬愛する念を持ちながらさわやかに打つことが一番の醍醐味。桑原さんの生き方がまさにそれを示しているように思える。

亜Q

(2010.5.15)


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