或る女

恥も外聞もなく文豪の作品タイトルを借用したのも、私なりに深〜い理由(わけ)があるのでございます。もちろん女性(にょしょう)に関すること、ここでは仮にM女とでも呼ばせていただきましょう。M女は結婚後に碁を覚え、級位者を対象にハンス・ピーチが始めたハッピー・マンデー教室などに通っていたうら若き主婦。ご縁があって最初にお手合わせをしていただいたのがもうかれこれ3年ほど前になりましょうか。

M女はその半年前に碁を始めたばかりでしたが、かなりのスピードで上達してそろそろ初段の灯火がかすかにうかがえるところまできていたのでしょう。私に何子置いたのかは忘れましたが、いちいちため息をつきながらおっかなびっくり打ち続ける様子にふと自分も初級者だった頃を思い出し、たまに飛び出す明らかな悪手には私のわかる範囲で置き直し、二人三脚のような形で打ち終わってつくり上げてみれば黒が数目余していました。

もちろんこれは私が一方的に仕掛けた出来レースではありました(神かけてホントです)が、私は精一杯無念の表情を浮かべ、「ありゃ〜、負けちゃった。グヤジ〜!」と絶叫して見せました。勝つこと、そしてウワテを怖がらなくなること、これがシタテに最初に与えるべき貴重な教訓なのです。教育効果は絶妙でした。M女はその時はしたなさを見せまいとして、笑顔を必死にかみ殺していましたが、とびっきりの遊び道具を与えられた子供のような目つきを浮かべ、碁が面白くてたまらくなったようでした。かくして、M女との第一幕は私の筋書き通りに開いたのです。

その後1年ほど経って、M女の挑戦を再び受けて立ちました。「また強くなった」との無責任な噂を根拠に置石を2つほど減らして私には余裕たっぷりの手合い。打っている途中でノーガキを垂れたくなったり、相手の悪手を待ったさせたりする私の悪い癖は極力抑え、M女が囲いたければ囲わせ、石を取りたければ小さく進呈しながら局面を進めていきました。それでも石の効率が違うのは一目瞭然。並べて数目、ウワテたる私が今回はしっかりと負かす。それも組んずほぐれつの戦いの結果ではなく、価値観あるいは志の違いで。M女にとってこの負け方は大きな肥やしになるだろう、そんな親心でM女の打ち方を見守っていました。

ところが親の心、子知らず。M女は大ヨセに入ると急にしっかりし始め、終わってみれば逆に私が数目負け。私が密かにつくりあげた教育計画(“ヒヒオヤヂによる女性調教法”ではありません!)は頓挫してしまいました。しかし、ものは言い様です。私はニッコリと微笑みながら「若き後輩、それも異性の友人が予想以上に成長してくれるのを目の当たりにすることほど愉快なことはない」とM女の善戦を称え、「このままでは悪女への道を突き進んでしまうのではないかなぁ」などとちょっぴり警戒する素振りで太っ腹(体型ではなく、精神面のことです)なところを見せつけたのでした。M女はこの時「悪女」とい
う言葉に反応し、クククとのどの奥で笑いを包み込んでいました。私とM女との第二幕は多少の手違いはありましたが、まずまず、つつがなく閉じたのです。

それからまた何年か過ぎ、M女はれっきとした二段格となって私の前に現れました。鷹揚な私もさすがに今度ばかりは甘い顔をするわけにはいきません。いえ、勝ち負けをどうこう言うつもりはありません。碁の“質の違い”を体感していただくこと、これが何よりもM女のクスリになるはずだから。その重要なことに気付かせず、もしもまた私が負けるようなことになると、M女は大きな勘違いをしたままこれからの囲碁ライフを送ることになってしまうのです。

私の碁は千寿会の中でも「品格随一」と謳われています(え?誰が謳っているかって?そんなプライバシーはここでお教えするわけにはいきません)。置き碁ではあっても私なりにウソ手は排し本手を打ちつつシタテの意思に碁を委ねます。それでも中盤がそろそろ過ぎる頃、置石の効果は完全に消え去り、地合いでも白が良くなっているではありませんか。私はしみじみと人を育てる喜びを噛み締め、そしてそれを我が事のように愉しむ私自身をちょっぴり褒めてあげながら、黒にもう一度屈服を迫りました。

どのぐらいの時間だったでしょうか、M女の手が止まりました。そう、この苦吟こそがシタテにとっては苦いけれどこれからの体力をつける最高の良薬なのです。ところが何と、打たれた手に私は愕然としました。そこはもろもろの味があって黒からは手出しできないはずだったところ、でも今はそれ以上に事が大きくなっていたのです。その後の流れを私は忘れました。ただ、M女が一手一手すべて長考を重ねたことを覚えています。出たら切る、付けたらはねる、そういったセットになった決まりきった手順でも思い悩み、ため息をつきながら、オズオズと自信ない手つきで最善手を打ってくるのです。

もうどうにもなりません。私の頭の中を駆け巡るのは、なぜかosama先生の言葉。「局の碁の流れ=ストーリーをいくつかのブロック(文章で言う、<章>のようなもの)に分けて考え、ひとつのブロックはその局面だけを一気に打ち続けるのは有段者なら当たり前」——。私は精一杯の矜持を保ちつつ、念のため一服のユーモアを盛り込んだおどけた口調で「トホホ、また負けた〜」と静かに石を投じました。

この時、M女の口から唐突に高笑いが弾け飛びました。見守っていた周囲のみんなも笑いました。でも、これでは青春明朗ドラマのださいエンディングそのものではありませんか。私ぐらいのオトナになると、女の忍び泣きとか繰り言、男への恨み節といったもっと隠微な世界が好きなのです。私はその場をつくり笑顔で立ち去り、一人西陽が翳り行く狭い部屋に引きこもりました。そして「なぜ負けたんや」と煩悶しているうちに、代々封建的な家風だった我が家の家訓を思い出してしまいました。「オナゴだけには負けたらアカン!」(何で関西弁なんや?)——。いつしか私はご先祖様の仏壇の前で忍び泣いていました。

来て欲しくない時に必ず現れる人がいます。そう、それがかささぎさんでした。そして満面に笑みをたたえながら、真ん前にどっかりと座り込み碁盤を置いて。「ボクはM女にいつも勝っているのに変ですね〜」などと慰め口調で講釈を垂れ始めるではあ〜りませんか。かささぎさんと私では実力伯仲、いえ、はっきりと申しましょう。芸は私が上、対戦成績も私がリードしているのです。しかし、かささぎさんの勝ち誇った目はこう語っていました。つまり、序列はおのずから「かささぎ>M女>私」に決まったと。

挙句の果てにかささぎさんから飛び出したのが、「M女に勝つには序盤からペタペタ石を引っ付けていけばええ、そうすれば何でも言いなりになるんや」。かささぎさんは善意の人ですから、きっと私を励まそう(この言葉はなぜか嫌いなのですが)としたのでしょう。ええ、それに違いありません。でもこの言葉は一層私を傷つけました。

「気高く清らかな女性ほど矢継ぎ早のタッチ攻撃にメロメロになるのか」——。いつしか陽がどっぷりと暮れた暗い部屋の中で私の煩悶は深まるばかりでした。

亜Q

(2006.8.10)


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